William Tuson (1858?-??)
William Tuson(ウィリアム・タッソン、1858年頃 – 没年不詳)は、Issler’s Orchestra のクラリネット奏者として、19世紀末のアメリカ録音文化の発展を支えた職業演奏家のひとりです。彼の名前は録音史の表舞台に大きく刻まれているわけではありませんが、初期の商業録音において重要な役割を果たした存在であり、蓄音機という新しいテクノロジーと音楽家の関わりを物語る人物です。

Issler’s Orchestra
タッソンは1850年代後半にドイツ系移民の家庭に生まれ、若い頃からクラリネットを中心に木管楽器を学びました。当時のアメリカ北東部では劇場楽団や軍楽隊、地域のダンス楽団が盛んで、クラリネットは旋律と伴奏の両方を支える重要な存在でした。ニュージャージーやニューヨーク近郊で活動していたタッソンは、地域のホールや劇場で演奏を重ね、確かな演奏技術を磨いていったと考えられています。
1888年から1889年にかけて、エジソンが蓄音機を商業化するために録音技術を本格的に開発し始めると、録音実験用に安定した少人数のアンサンブルが必要とされました。エドワード・アイスラーを中心に結成されたのが Issler’s Orchestra です。タッソンはここにクラリネット奏者として加わり、家庭向けの「パーラー・オーケストラ」としての演奏を支えました。
クラリネットは柔らかな音色と多様な表現力を活かし、フルートやコルネット、ピアノと共に旋律を引き立てる役割を果たしました。当時のブラウン・ワックス・シリンダー録音は音域に制限がありましたが、クラリネットは比較的録音しやすく、演奏位置や吹き方を微調整しながらクリアな音を記録する工夫が必要でした。タッソンは録音技師や Issler の指示に応じて、演奏中の立ち位置や音量を細かく調整し、安定した録音品質を実現するために尽力したと言われています。
録音史に刻まれた音色と後年
Issler’s Orchestra は「Fifth Regiment March」や「Nanon Waltz」、「Electric Light Quadrille」など、当時人気の曲を数多く録音しましたが、これらの録音にはタッソンのクラリネットが欠かせませんでした。短時間で何本ものシリンダーを連続して作る必要があったため、同じ曲を何度も繰り返し演奏するスタジオ・ミュージシャンとしての高い技術と集中力が求められました。録音はエジソン社に留まらず、US Phonograph Company や Columbia Phonograph Company などにも広がり、タッソンはこうした複数のレーベルにまたがって録音に携わりました。
Issler’s Orchestra が1900年頃にその役目を終えた後も、タッソンは録音現場に残り、ディスク録音初期の伴奏奏者として活動を続けた形跡があります。Columbia ではエドワード・アイスラーやジョージ・シュヴァインフェストと共に、録音技師や演奏者として、スタジオでの制作を支える重要な役割を果たしました。残念ながら彼の私生活や晩年の詳細は記録が乏しく、没年もはっきりしていませんが、当時の録音台帳にはタッソンの名が残っており、その足跡を伝えています。
静かに生きる初期録音の証人
William Tuson の名前は今日の音楽史ではあまり語られませんが、彼の演奏は残された蝋管録音の中に今も生きています。録音という新しい技術に合わせて音色や吹き方を工夫し、どのようにすれば限られた技術でも最良の音が収録できるかを実践した録音職人の一人です。小編成のパーラー・オーケストラが奏でたクラリネットの柔らかい旋律は、蓄音機という新しい機械を通して多くの家庭に届けられました。録音という文化の黎明期に、職業演奏家として自らの技と音楽を捧げた William Tuson は、まさに録音史の静かな証人と言えるでしょう。
