Gilmore’s 22nd Regiment March (piccolo) / Frank Goede (1889)
19世紀後半、アメリカでは南北戦争を経て、国威発揚や市民の娯楽として吹奏楽が大きな役割を果たしました。この時代に「アメリカ吹奏楽の父」と称されたのがパトリック・サーズフィールド・ギルモア(Patrick Sarsfield Gilmore, 1829–1892)です。ギルモアはニューヨーク国民警備隊第22連隊の専属軍楽隊を指揮し、祝典やパレード、万博などで演奏を披露しました。彼が指揮した22nd Regiment Bandは、当時の米国で最も著名な市民軍楽隊の一つであり、その行進曲の代表が「The 22nd Regiment March」でした。
このマーチは、明快な主題、力強いビート、ファンファーレ風の序奏と繰り返し構造を備えており、いわゆる「アメリカン・マーチ」のお手本とされました。ギルモアはスーザよりも早くこの分野で成功を収め、後の吹奏楽文化に大きな影響を残しました。
ワンゲマンとゴエデの録音実験の舞台
1889年、トーマス・エジソンの円筒式蓄音機(フォノグラフ)の欧州展開を担ったのが、エジソンの技師であったA. Theo. E. Wangemann(アドルフ・テオドール・ワンゲマン)でした。ワンゲマンはエジソンからの命令を受け、録音機材を携えてベルリン、ロンドン、パリなど欧州各地でフォノグラフの実演と録音を行いました。その目的は、王侯貴族や文化人にフォノグラフの性能を示し、欧州での販売網を築くためでした。
当時の録音技術では、蝋円筒に正確に音を刻むには、音量が大きく高音域が明瞭な楽器が求められました。低音域の楽器や弦楽器は音がこもりやすく、蝋円筒にはっきりと記録できませんでした。そこで選ばれたのが、フルートよりさらに高音域を持つピッコロです。小さなボディで鋭い音を放つピッコロは、録音針の振動を蝋にくっきりと刻むのに最適でした。
ベルリンでこの役割を担ったのが、フランク・ゴエデ(Frank Goede)というピッコロ奏者でした。彼の詳細な経歴は残されていませんが、録音メモにはその名が複数の曲目と共に記録されています。彼は高い音量と技巧を備えた奏者として、ワンゲマンの録音実験に協力した数少ない演奏家の一人でした。
5月24日の録音の意義とその後
1889年5月24日、ベルリン市内のホテルの一室に設けられた簡易録音室で、ゴエデは「The 22nd Regiment March」をピッコロ独奏で演奏しました。本来、吹奏楽団が大編成で演奏する行進曲を、一人の奏者が旋律部分を抜き出してピッコロで吹くという形です。録音時間はおおよそ1分から2分程度だったと考えられています。
この録音は、録音針の感度、蝋円筒の材質、温度条件、背景雑音の影響などをテストするために何度も繰り返されました。ワンゲマンのメモには「ゴエデのピッコロは小部屋の壁を突き抜けるように響き、針が一音も逃さず音溝に刻まれた」と記録されています。これは、エジソンの技術力を欧州の王侯貴族に示すデモンストレーションとして大きな成功でした。
録音された円筒の一部は、ニューヨークのエジソン研究所に送られ、アメリカ国内の技術ショーケースにも使われました。残念ながら当時の円筒はすべてが現存しているわけではなく、ゴエデの録音も大部分が失われましたが、UCSB Cylinder Audio Archiveなどのプロジェクトにより、同時期の類似録音の一部が現在も聴くことができます。
同名マーチの混同と文化的意義
「The 22nd Regiment March」というタイトルは、19世紀には多くの作曲家が自国の連隊を称える行進曲につけていたため、複数の異なる曲が存在します。しかし、この1889年の録音に関しては、Patrick Gilmoreのマーチであることがほぼ確実です。アメリカ文化を示す象徴曲として、ワンゲマンはあえてギルモアのマーチを選び、欧州での録音デモに使用しました。
無名のピッコロ奏者フランク・ゴエデの名前は、一般の音楽史にはほとんど登場しませんが、彼の演奏は近代録音史における重要な足跡となっています。蝋円筒に刻まれた数分の高音が、録音技術が「一時の魔法」から「記録媒体」へと進化する過程を象徴しているのです。
