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1888年の録音・音声記録

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1888年の録音・音声記録

1888年には、録音された音声が発明実験の対象にとどまらず、公開実演、遠隔地への送付、著名人の声の保存、事業化へと広がりはじめました。トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)のフォノグラフ(Phonograph)は、ワックスシリンダー(wax cylinder)を用いる録音装置として再び注目を集め、ジョージ・エドワード・グーロー(George Edward Gouraud, 1842–1912)のリトル・メンロ(Little Menlo)では、イギリスにおける初期の音声記録が相次ぎました。ホレイショ・ネルソン・パワーズ(Horatio Nelson Powers, 1826–1901)の「The Phonograph’s Salutation」、クリスタル・パレス(Crystal Palace)でのヘンデル音楽祭(Handel Festival)の合唱録音、リトル・メンロでの公開関連録音、ヘンリー・アーヴィング(Henry Irving, 1838–1905)やウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)に関わる録音は、人の声を記録し、送り、保存する媒体としてフォノグラフが使われはじめたことを物語っています。

録音技術の周辺でも、新しい媒体と事業の形が姿を見せました。エミール・ベルリナー(Emile Berliner, 1851–1929)はグラモフォン(Gramophone)の公開実演を行い、ディスク録音の方向性を示しました。アメリカン・グラフォフォン・カンパニー(American Graphophone Company)とノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー(North American Phonograph Company)をめぐる動きは、フォノグラフとグラフォフォン(Graphophone)を事業として展開する流れを強めました。1888年の録音・音声記録には、現存する音源だけでなく、録音媒体、会社組織、音声通信、著名人録音の収集という複数の動きが重なっています。

同じ年、世界では近代社会の制度や産業を大きく変える出来事が続きました。ブラジル帝国(Empire of Brazil)では黄金法(Lei Áurea)が成立し、奴隷制が廃止されました。アメリカ合衆国ではナショナル・ジオグラフィック協会(National Geographic Society)が設立され、地理・探検・科学知識を広める組織が生まれました。ジョージ・イーストマン(George Eastman, 1854–1932)はコダック・カメラ(Kodak Camera)を発売し、写真を専門家だけの技術から一般利用者にも扱える記録手段へ近づけました。ドイツ帝国(German Empire)ではベルタ・ベンツ(Bertha Benz, 1849–1944)が長距離自動車走行を行い、自動車の実用性を示しました。ロンドンでは切り裂きジャック連続殺人事件(Jack the Ripper murders)が発生し、都市社会と報道のあり方に強い影響を残しました。イングランドではフットボールリーグ(The Football League)が発足し、近代スポーツの制度化も進みました。

6月

1888年6月には、録音された音声を大西洋横断の通信・記録媒体として用いる試みと、大規模な公開空間で音を記録する試みが相次ぎました。パワーズによる「The Phonograph’s Salutation」は、録音された詩をフォノグラム(phonogram)としてイギリスへ送る構想の中で作られ、グーローのリトル・メンロへ届けられました。また、クリスタル・パレスで行われたヘンデル音楽祭では、大規模合唱を遠距離から録音する実験が行われました。1888年6月の録音は、フォノグラフが個人の声、詩、公開演奏、遠隔通信を結びつける媒体として使われはじめたことを示しています。

6月16日:The Phonograph’s Salutation

1888年6月16日、パワーズは「The Phonograph’s Salutation」を録音しました。この録音は、フォノグラフで吹き込まれた詩をフォノグラムとして遠隔地へ送る試みの中で作られました。録音はアメリカ合衆国ニュージャージー州オレンジ(Orange, New Jersey, United States)で行われ、のちにグーローのリトル・メンロへ届けられました。録音された声が、実演の記録だけでなく、離れた場所へ送られるメッセージとして用いられはじめたことを伝える初期の音声記録です。

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The Phonograph’s SalutationHoratio Nelson Powers

【1888年6月16日の出来事】
・ロンドンでキリスト教青年会体育館が開館
ロンドンのロングエーカー(Long Acre)では、アルバート・エドワード、プリンス・オブ・ウェールズ(Albert Edward, Prince of Wales, 1841–1910)によって、キリスト教青年会体育館(Young Men’s Christian Association gymnasium)が開かれました。19世紀後半の都市では、身体教育、体操、健康づくりへの関心が高まり、この体育館の開設も、近代的な身体文化が都市生活の中に広がっていく動きの一部となりました。

6月26日:イギリスで受領された最初期のフォノグラム

1888年6月26日、エジソンが研究所で吹き込んだフォノグラムがイギリスで受領されました。ラベル転写では、この音声は1888年6月16日午前2時に録音され、「イギリスで受領された最初のフォノグラム」として記録されています。録音内容の完全な確認は難しいものの、録音された声を大西洋を越えて送り届ける試みが、1888年6月の時点ですでに実行されていたことを示す重要な音声記録です。

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First Phonogram recd. in EnglandThomas Alva Edison

【1888年6月26日の出来事】
・カール・ベンツの自走車両に関する米国特許が成立
アメリカ合衆国では、カール・ベンツ(Carl Benz, 1844–1929)の自走車両に関する米国特許第385087号(United States Patent No. 385,087)が成立しました。特許名は「Self-Propelling Vehicle」で、ガスエンジンを備えた三輪車両の構造や、始動・停止・制動の機構に関する内容が記されています。1880年代後半には、録音装置、電気、写真、自動車などの新しい技術がそれぞれ実用化へ向かっており、この特許も、機械による移動手段が近代産業の一部として広がっていく流れを示しています。

6月29日:Handel Festival: “Israel In Egypt” – Excerpt

1888年6月29日、クリスタル・パレスで行われたヘンデル音楽祭で、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(George Frideric Handel, 1685–1759)のオラトリオ「Israel In Egypt」の一部が録音されました。指揮はアウグスト・マンス(August Manns, 1825–1907)が務め、資料上では約4,000人規模の合唱を、離れた位置からフォノグラフで記録したものとされています。音質や判別可能な内容には限界がありますが、大規模な公開演奏を録音しようとした初期の事例であり、現存する最初期の音楽録音のひとつとして重要です。

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Handel Festival at Crystal Palace [Excerpt of “Israel in Egypt” / Handel] (recording no. 1)Chorus of 4000 voices; August Manns, conductor
Handel Festival at Crystal Palace [Excerpt of “Israel in Egypt” / Handel] (recording no. 2)Chorus of 4000 voices; August Manns, conductor
Handel Festival at Crystal Palace [Excerpt of “Israel in Egypt” / Handel] (recording no. 3)Chorus of 4000 voices; August Manns, conductor

【1888年6月29日の出来事】
・イングランドで初期の虫垂切除手術が行われる
ロンドンでは、フレデリック・トリーヴズ(Frederick Treves, 1853–1923)が、イングランドで初期の虫垂切除手術を行いました。19世紀後半の外科医療は、麻酔、消毒法、腹部外科の発展によって大きく変化しており、この手術も、近代外科が内科的治療だけでは対応できなかった病気へ踏み込んでいく流れの中に位置づけられます。

8月

1888年8月には、リトル・メンロを中心に、フォノグラフの公開実演や著名人の声を残す録音が続きました。8月14日には、ロンドンの報道関係者を迎えた公開関連録音が行われ、音楽、挨拶、コメント、口笛などを含む複数の音声記録が残されました。8月17日には、グーローからエジソンへ向けた書簡形式の録音やピアノ独奏が記録され、8月30日にはヘンリー・アーヴィングの朗読シリンダーが作られたとされています。この月の録音からは、フォノグラフが公開実演のための装置であるだけでなく、個人の声や演奏を保存し、遠くの相手へ届ける媒体として使われていた様子がうかがえます。

8月14日:リトル・メンロ公開関連録音

1888年8月14日、リトル・メンロでは、ロンドンの報道関係者を迎えたフォノグラフの公開関連録音が行われました。この録音群には、報道関係者への歓迎、エジソンへの祝意、グーローによる紹介、音楽演奏、口笛などが含まれています。一部の録音は音声が不安定で、演奏者や発話者を完全に確認できないものもありますが、公開の場でフォノグラフが披露され、声や音楽がその場で記録された様子を伝える重要な資料です。

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The phonograph’s welcome to London PressN/A
Piano and cornet (“The lost chord”)unidentified cornet player and pianist
Talks to Mr. EdisonN/A
London Press congratulations to Mr. Edison; Mr. A. M. Broadley continuedAlexander Meyrick Broadley; London Press
London Press congratulations to Mr. Edison [and some unknown whistling (Mrs. Alice J. Shaw?)]London Press; possibly Alice J. Shaw
Letter to Mr. Edison from Col. Gouraud, August 14, Little MenloGeorge Edward Gouraud
Whistling by Mrs. Shaw [Alice J. Shaw], August 14, Little MenloAlice J. Shaw
Col. Gouraud introducing to Edison the representatives of the London PressGeorge Edward Gouraud
Cheers to Mr. Edison by London Press, August 14, Little MenloLondon Press

【1888年8月14日の出来事】
・交流電流計の特許が成立
アメリカ合衆国では、オリバー・ブラックバーン・シャレンバーガー(Oliver Blackburn Shallenberger, 1860–1898)による交流電流計の特許が成立しました。この装置は、交流電流の使用量を測定するためのもので、電力会社が利用量に応じて料金を計算する仕組みを整えるうえで重要な役割を果たしました。電灯、電力供給、都市インフラが広がる時代に、電気を「使った量」として測る技術もまた、近代生活を支える基盤になっていきました。

8月17日:グーロー書簡録音とピアノ独奏

1888年8月17日、リトル・メンロでは、グーローからエジソンへ向けた書簡形式の録音と、マーガレット・バックナル・エア(Margaret Bucknall Eyre, 生没年不明)によるピアノ独奏が記録されました。グーローの録音は、フォノグラフを音声の手紙として使う試みの一部であり、録音された声を離れた相手へ届けるという発想を具体化したものです。ピアノ独奏の録音は、リトル・メンロで声だけでなく器楽演奏も記録されていたことを示す資料です。

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Letter from Col. Gouraud to Mr. Edison, August 17, 1888George Edward Gouraud
Piano solo by Mrs. EyreMargaret Bucknall Eyre

【1888年8月17日の出来事】
・バルセロナ万国博覧会の「三匹のドラゴンの城」が開館
スペイン王国(Kingdom of Spain)のバルセロナでは、バルセロナ万国博覧会(Barcelona Universal Exposition)の施設として建設されたカステル・ダルス・トレス・ドラゴンス(Castell dels Tres Dragons)が開館しました。この建物は、リュイス・ドメネク・イ・ムンタネー(Lluís Domènech i Montaner, 1850–1923)によって、博覧会のカフェ・レストランとして設計されたものです。鉄、レンガ、装飾的な造形を組み合わせた建築は、のちのカタルーニャ・モデルニスモを象徴する存在のひとつとなり、博覧会が都市改造、観光、産業展示、建築表現を結びつける場であったことを示しています。

8月30日:ヘンリー・アーヴィングの朗読シリンダー

1888年8月30日、リトル・メンロで、ヘンリー・アーヴィングの朗読を記録したシリンダーが作られたとされています。ラベル転写では「Declamation / by / Henry Irving / “Little Menlo” / August 30 / 1888」と記されており、グーローの邸宅で著名俳優の声が録音されたことを伝えています。録音内容の詳細や現存状態には確認できない部分がありますが、俳優の朗読を音声として保存しようとした初期の事例として重要です。

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Declamation by Henry IrvingHenry Irving

【1888年8月30日の出来事】
・ウォルシンガム男爵がヨークシャーで大規模なライチョウ猟を行う
イングランドのヨークシャーでは、トマス・ド・グレイ、第6代ウォルシンガム男爵(Thomas de Grey, 6th Baron Walsingham, 1843–1919)が、ブラバーハウス・ムーア(Blubberhouses Moor)で大規模なライチョウ猟を行いました。この日の記録は、19世紀後半のイギリス貴族社会における狩猟文化、鉄道による移動の発達、広大なムーア管理と娯楽が結びついていたことを示しています。一方で、現在の視点では、当時の狩猟規模や野生動物利用のあり方を考えるうえでも象徴的な出来事です。

1888年秋頃

1888年秋頃には、エジソン・トーキング・ドール(Edison Talking Doll)用とされる録音が作られました。この録音は金属製シリンダーに記録された「Twinkle, twinkle little star」の一例で、アメリカ合衆国国立公園局(National Park Service)の資料では、録音日は1888年秋とされています。演者は資料上確認できません。

トーキングドール用録音

エジソン・トーキング・ドール(Edison Talking Doll)は、人形の内部に小型の録音再生機構を組み込み、録音された声を玩具として聞かせようとした初期の商品です。1888年秋頃の「Twinkle, twinkle little star」は、のちの1890年2月–5月頃に制作された茶色ワックス円筒のエジソン・トーキング・ドール用録音より早い時期の例です。劇場や展示場で聴かせる音楽シリンダーとは異なり、録音技術を家庭向けの玩具に応用しようとした試みとして位置づけられます。

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Twinkle, twinkle little star (Example 1)N/A

【1888年秋頃の出来事】
・ロンドンで切り裂きジャック連続殺人事件が起こる
ロンドンのホワイトチャペルでは、1888年秋に切り裂きジャック連続殺人事件が起こりました。犯人は特定されず、事件は未解決のまま残りましたが、貧困、都市治安、新聞報道、警察捜査への関心を一気に高めました。大都市の暗部が連日報じられる一方で、写真、電信、新聞、録音といった記録・伝達の技術が社会の出来事を広く伝える時代にもなっていました。

10月

1888年10月には、リトル・メンロを中心に、フォノグラフを使った音声記録がさらに広がりました。10月5日には、晩餐会の場で複数の祝辞や乾杯挨拶が録音され、音声をその場の発言や社交の記録として残す試みが見られます。10月下旬頃には「Around the World on the Phonograph」が録音され、フォノグラフによって声を記録し、世界各地へ届けるという発想がより明確になりました。1888年10月の録音では、フォノグラフが実験装置や公開実演の道具にとどまらず、社交、通信、記念、宣伝にも関わる媒体として姿を現しています。

10月5日:リトル・メンロ晩餐会の祝辞・乾杯挨拶録音群

1888年10月5日、リトル・メンロでは、晩餐会の場で祝辞や乾杯挨拶を記録する録音が行われました。アーサー・サリヴァン(Arthur Sullivan, 1842–1900)は、フォノグラフを初めて体験した驚きとともに、音楽が永遠に記録されることへの戸惑いも語りました。この録音群には、グーローによる進行や紹介、出席者の挨拶、乾杯の歓声などが含まれており、フォノグラフが単に声を保存する装置ではなく、その場の社交や儀礼を組み立てる媒体として使われていたことがわかります。

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After dinner toast at Little Menlo: Hip hip hooray! (?)George Edward Gouraud; unidentified speakers
After dinner toast at Little Menlo: Sir Arthur Sullivan and A. M. BroadleyArthur Sullivan; Alexander Meyrick Broadley
Mr. Henry Cecil Raikes, Her Majesty’s Postmaster General and Edmund Yates [address to Mr. Edison]Henry Cecil Raikes; Edmund Yates
After dinner toast at Little Menlo: Beginning of toast, listing some of the individuals at the dinnerGeorge Edward Gouraud; unidentified speakers
Mr. Henry Trueman Wood and Mr. James Dredge to EdisonHenry Trueman Wood; James Dredge
After dinner toast at Little Menlo: Opening remarks; Toasts and cheers to Edmund Yates, Sir Arthur Sullivan, A. M. Broadley and Postmaster GeneralGeorge Edward Gouraud; Edmund Yates; Arthur Sullivan; Alexander Meyrick Broadley; Henry Cecil Raikes

【1888年10月5日の出来事】
・旧ベルリン・フィルハーモニーが再開館
ドイツ帝国のベルリンでは、旧ベルリン・フィルハーモニー(Alte Berliner Philharmonie)が再開館しました。この建物は、もとはローラースケート場として建てられた施設でしたが、改装によって大規模なコンサートホールとして整えられました。のちにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(Berliner Philharmoniker)の重要な拠点となり、音楽都市ベルリンの発展を支える場のひとつになりました。

10月下旬頃:Around the World on the Phonograph

1888年10月下旬頃、エジソンは「Around the World on the Phonograph」を録音しました。録音地は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ウェスト・オレンジ(West Orange, New Jersey, United States)またはその周辺とされています。この録音でエジソンは、フォノグラフを通じて世界をめぐる想像上の旅について語りました。黄色パラフィンシリンダー(yellow paraffine cylinder)に記録されたこの音声は、現存するエジソン本人の声の最古級の録音とされています。フォノグラフを発明した人物の声が、フォノグラフそのものによって残された点でも、初期録音史の中で特に象徴的な音声記録です。

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Around the World on the PhonographThomas Alva Edison

【1888年10月下旬頃の出来事】
・ゴーギャンがアルルに到着し、ファン・ゴッホとの共同生活が始まる
1888年10月23日、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848–1903)はフランス共和国(French Republic)のアルルに到着し、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853–1890)との共同生活を始めました。ファン・ゴッホは、南フランスに画家たちの共同制作の場を作ることを望んでおり、ゴーギャンの到着はその構想が形になりかけた出来事でした。ふたりは約2か月にわたって制作をともにしましたが、性格や芸術観の違いはしだいに大きくなり、同年12月の破局へ向かっていきました。

11月

1888年11月には、ジョージ・エドワード・グーロー(George Edward Gouraud, 1842–1912)周辺で進められていた著名人録音の中に、ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)からトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)へ向けた音声メッセージが含まれます。ラベル転写では、ロンドンで1888年11月22日に録音された「エジソン宛のメッセージ」とされており、フォノグラフ(Phonograph)が著名人の声を保存するだけでなく、特定の相手へ届ける音声の手紙として使われていたことを示します。ただし、後年に伝わる媒体やラベル情報には複製・転写・所蔵経路の問題があり、原シリンダーの現存状態は資料上確認できません。

11月22日:グラッドストンからエジソンへの音声メッセージ

1888年11月22日、グラッドストンは、エジソンへ向けた音声メッセージを録音したとされています。この録音は、グーローが進めた著名人録音の一部に位置づけられます。資料上では、録音地はロンドン、内容はエジソン宛のメッセージとされますが、現在知られる情報は後年のラベル転写や所蔵資料に依拠しており、録音媒体の来歴には確認できない部分があります。

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Message to Mr. EdisonWilliam Ewart Gladstone

【1888年11月22日の出来事】
・コンセルトヘボウ管弦楽団がリヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲を演奏
オランダ王国(Kingdom of the Netherlands)のアムステルダムでは、創設間もないコンセルトヘボウ管弦楽団(Concertgebouw Orchestra)の演奏会で、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss, 1864–1949)のホルン協奏曲が取り上げられました。指揮は、初代首席指揮者のウィレム・ケス(Willem Kes, 1856–1934)が務めました。1888年に始まったこのオーケストラは、のちにヨーロッパを代表する管弦楽団のひとつとなり、若い作曲家の作品を演奏する場としても重要な役割を果たしていきました。

12月

1888年12月には、グーロー周辺の白蝋シリンダー資料に、英国議会関係者の声を示すラベル情報が残されています。12月6日には、庶民院議長アーサー・ウェルズリー・ピール(Arthur Wellesley Peel, 1829–1912)の声とされる録音が、ウェストミンスター宮殿(Palace of Westminster)で作られたとされています。ただし、この録音についても、現存媒体・ラベル・後年の所蔵経路には確認限界があり、原シリンダーの状態や録音内容の完全な確認はできません。

12月6日:庶民院議長アーサー・ウェルズリー・ピールの録音

1888年12月6日、ロンドンのウェストミンスター宮殿で、庶民院議長アーサー・ウェルズリー・ピールの声を記録したシリンダーが作られたとされています。ラベル情報では「The Speaker of House of Commons」と記されており、政治家・公的機関関係者の声を残そうとしたグーロー周辺の録音活動の一例として位置づけられます。ただし、資料上確認できるのは後年のラベル情報と所蔵資料に基づく記録であり、録音内容や媒体の来歴には未確認の部分があります。

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Voice of The Speaker of House of CommonsArthur Wellesley Peel

【1888年12月6日の出来事】
・ウィル・ヘイが生まれる
イングランドのストックトン・オン・ティーズでは、のちに俳優、コメディアン、映画監督として知られるウィル・ヘイ(Will Hay, 1888–1949)が生まれました。ヘイは1930年代のイギリス映画で人気を集め、学校教師や権威ある職業の人物を滑稽に演じる芸風で知られるようになりました。一方で、アマチュア天文学者としても活動し、土星の白斑観測でも知られています。娯楽、映画、科学趣味がひとりの人物の中で結びついていた点でも、近代的な大衆文化の広がりを感じさせる人物です。

12月8日:ケンブリッジ公爵の声

1888年12月8日、ロンドンで、ジョージ・ウィリアム・フレデリック・チャールズ、ケンブリッジ公爵(George William Frederick Charles, Duke of Cambridge, 1819–1904)の声を記録したとされるシリンダーが作られました。ラベル転写では「Voice of The Duke of Cambridge / London, Dec. 8 / 1888」と記録されています。録音内容の完全な確認には限界がありますが、王室関係者の声をフォノグラフで保存しようとした事例として重要です。1888年末のロンドンでは、政治家や公的要人だけでなく、王室に近い人物の声も録音媒体に残す試みが行われていました。

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Voice of The Duke of CambridgeGeorge William Frederick Charles, Duke of Cambridge

【1888年12月8日の出来事】
・『イラストレイテッド・ポリス・ニュース』がホワイトチャペル事件の図像を掲載
イギリスでは、『イラストレイテッド・ポリス・ニュース(The Illustrated Police News)』1888年12月8日号に、ホワイトチャペル事件を扱う図像が掲載されました。切り裂きジャック連続殺人事件は、未解決の殺人事件であると同時に、新聞・挿絵・大衆報道によって強く印象づけられた都市事件でもありました。事件そのものだけでなく、恐怖や不安が印刷メディアを通じて広がっていく過程も、19世紀末のロンドン社会を象徴しています。

1888年-1891年頃

1888年から1891年頃にかけて、グーローの周辺では、著名人の声をフォノグラフで記録し、保存しようとする動きが続きました。これらの録音には、個別の日付が確認できるものと、後年のラベル転写や所蔵経路から時期を推定する必要があるものがあります。録音された声は、エジソンへ送る音声メッセージであると同時に、政治家、俳優、作家、王室関係者などの声を残す歴史的な記録でもありました。グーローの “phonogramic album” は、録音された声を集め、交換し、保存するという初期フォノグラフ文化の広がりを伝えています。

グーローの “phonogramic album”

ジョージ・エドワード・グーロー(George Edward Gouraud, 1842–1912)の “phonogramic album” は、現在の意味での商業アルバムではなく、リトル・メンロ(Little Menlo)やグーローのロンドンでのフォノグラフ実演に関係する初期フォノグラフ録音群です。1888年には、ホレイショ・ネルソン・パワーズ(Horatio Nelson Powers, 1826–1901)の「The Phonograph’s Salutation」、リトル・メンロでの公開関連録音、ヘンリー・アーヴィング(Henry Irving, 1838–1905)の朗読録音、ウィリアム・ユワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)の音声メッセージなどが、この流れの中に位置づけられます。

この録音群は、著名人の声を歴史的記録として残し、遠隔地へ届けるという初期フォノグラフの構想と結びついています。ただし、後年に伝わる白蝋シリンダー資料には、原シリンダー、複製、ラベル転写、再録音、所蔵経路の不確実性が混在しています。個々の録音については、録音日・録音場所・話者・現存状態を資料上確認できる範囲で記述し、原シリンダーがそのまま現存すると断定しない表記が必要です。

ロバート・ブラウニング(Robert Browning, 1812–1889)の朗読録音は、1889年4月7日に記録された音声です。アルフレッド・ロード・テニスン(Alfred, Lord Tennyson, 1809–1892)やフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820–1910)に関わる録音も、資料上は1889年以降または1890年以降の録音として整理されます。

グーローの “phonogramic album”(1888年–1891年頃)
グーローの “phonogramic album” を初期録音史の視点で解説。リトル・メンロのフォノグラフ録音群、1888年–1891年頃の音声メッセージ、朗読、演説、音楽録音、著名人の声を整理。

1888年前後に録音された可能性のある音源

1888年前後の初期録音には、録音年、録音者、話者の同定がはっきりしないまま伝わっている音源もあります。初期のワックスシリンダーやグラフォフォン録音は、後年のラベル、所蔵経路、研究者による推定に頼らなければならない場合があり、録音日や内容を断定できないものも少なくありません。ヴィクトリア女王の声を含むとされるグラフォフォン・シリンダーも、そのような未確定要素を残す音声記録のひとつです。確実に日付を定められる録音とは分けて考える必要がありますが、1880年代末の録音技術が、王室や公的要人の声を保存する構想と結びついていたことを伝える資料です。

クイーン・ヴィクトリアとされるグラフォフォン・シリンダー

1888年前後の録音として、ヴィクトリア女王の声を含む可能性があるグラフォフォン・シリンダーが伝わっています。サイエンス・ミュージアム・グループ(Science Museum Group)の所蔵資料では、このシリンダーは1888年頃のグラフォフォン・シリンダーで、ヴィクトリア女王の声を含む可能性がある資料として説明されています。紙管にワックスを塗布したタイプの初期シリンダーで、1880年代末のグラフォフォン録音を伝える資料です。

ただし、話者をヴィクトリア女王本人と断定することはできません。録音は損傷が大きく、聞き取れる内容も限られています。後年の調査では、上品な女性の声らしき音声の一部が確認されていますが、根拠は所蔵経路や状況証拠に依存しています。このシリンダーは、王室関係者の声を録音しようとする試みが1880年代末にあった可能性を示す一方で、録音日、録音場所、話者の同定には未確定の要素が残る音声記録です。

1888年の録音技術と事業化

1888年には、録音技術そのものの改良と、録音装置を事業として展開する動きが同時に進みました。エジソンのフォノグラフは、錫箔(tinfoil)を用いた初期型から、ワックスシリンダーを用いる実用的な装置へと改良され、音声の記録、再生、保存をより安定して行える機械として注目されました。ウェスト・オレンジ研究所(West Orange Laboratory)では、録音機構、再生機構、媒体の改良が進められ、フォノグラフを通信、口述、記録、娯楽へ応用する可能性が広がっていきました。

会社組織の面でも、録音技術は発明家の実験から事業の対象へ移りはじめました。エジソン・フォノグラフ・カンパニー(Edison Phonograph Company)やノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーをめぐる動きは、フォノグラフを地域ごとの販売・貸出・運用事業として広げる流れを作りました。同じ時期には、アメリカン・グラフォフォン・カンパニーがグラフォフォンの事業化を進め、ベルリナーはグラモフォンの公開実演によってディスク録音の方向性を示しました。1888年は、録音が単なる発明品ではなく、会社、媒体、用途、市場を伴う産業へ向かいはじめた年でもありました。

エジソンの改良フォノグラフ

1888年、エジソンのフォノグラフは、錫箔を用いた初期型から、ワックスシリンダーを用いる実用的な録音装置へと大きく改良されました。改良フォノグラフ(Improved Phonograph)は、録音と再生をより安定させるために、記録媒体、カッター、再生機構、駆動方式を見直した装置でした。錫箔は繰り返し再生や保存に向きませんでしたが、ワックスシリンダーは録音された音声をより扱いやすい形で残すことを可能にしました。

この改良は、フォノグラフを一時的な発明品から、口述、通信、記録、公開実演に使える装置へ近づけました。1888年のリトル・メンロ関連録音や、エジソン本人の音声記録、ヘンデル音楽祭の録音は、改良されたフォノグラフが実際の音声記録に使われはじめたことを示しています。エジソンの改良フォノグラフは、1889年以降の商業録音や地域フォノグラフ会社の事業展開へつながる、録音産業成立前夜の重要な技術でした。

1888年8月の完成型フォノグラフ実演報道

1888年8月30日付のロンドン・ニュース(London News)は、“The New Phonograph” という見出しで、エジソンの完成型フォノグラフ(Perfected Phonograph)を紹介しています。記事では、エジソン研究所で行われた新しいフォノグラフの実験が取り上げられ、音声の記録だけでなく、音楽再生の可能性にも触れられています。

記事中では、フォノグラフから音楽が再生され、コルネットの音が明瞭に聞こえた一方、スネアドラムや口笛の音は判別しにくかったという趣旨の説明があります。また、記事画像上では楽曲名として “Hail Columbia” と読める箇所がありますが、資料の判読状態に制約があるため、曲名としては確定しません。演奏者、録音日、録音場所、録音媒体番号も資料上確認できません。

この報道は、1888年夏の時点で、完成型フォノグラフが音楽の録音・再生装置として新聞で紹介されていたことを示しています。現存録音として曲名や演奏者を特定できる段階ではありませんが、1888年のフォノグラフ実演が、声の記録だけでなく、楽器音や楽曲再生の実験として受け止められていたことを示す同時代資料です。

エジソン・フォノグラフ・カンパニーとノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー

1888年には、フォノグラフを発明品として保有するだけでなく、事業として広げるための会社組織も整えられていきました。エジソン・フォノグラフ・カンパニーは、エジソンのフォノグラフに関わる権利を管理し、改良された装置を商業利用へつなげる役割を担いました。録音装置は、まだ家庭で音楽を楽しむための商品というより、口述、通信、事務記録、公開実演などに使われる機械として期待されていました。

同年、ジェシー・H・リピンコット(Jesse H. Lippincott, 1842–1894)はノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーを設立し、フォノグラフとグラフォフォンの権利をまとめて事業化しようとしました。この会社は、各地域に設立されるフォノグラフ会社を通じて装置を貸し出し、運用する仕組みを広げていきます。1888年の会社組織の動きは、録音技術が発明家や研究所の中にとどまらず、地域会社、販売権、利用契約を伴う事業へ移りはじめたことを示しています。

ウェスト・オレンジ研究所でのフォノグラフ研究

ウェスト・オレンジ研究所では、1888年にフォノグラフの改良研究が本格化しました。エジソンと研究所の技術者たちは、録音をより安定させるために、記録媒体、針、ダイヤフラム、シリンダーの回転機構、再生機構の改良を進めました。錫箔を用いた初期型では、音声を残すことはできても、保存性や再生の安定性に限界がありました。ワックスシリンダーを用いる改良型は、録音された声をより扱いやすく残すための重要な転換点になりました。

この研究は、単に装置の性能を高めるためだけのものではありませんでした。フォノグラフは、口述、通信、事務記録、公開実演、娯楽に使える機械として期待されており、研究所ではその用途に合わせた実用化が進められていました。1888年の録音には、エジソン本人の音声、リトル・メンロへ送られたフォノグラム、大規模合唱の録音、晩餐会の祝辞・乾杯挨拶などがあり、ウェスト・オレンジ研究所での改良は、こうした録音活動を支える技術的な土台になりました。

ベルリナーのグラモフォン公開

1888年5月16日、ベルリナーはフランクリン研究所(The Franklin Institute)で、グラモフォンの公開実演を行いました。フォノグラフやグラフォフォンがシリンダーを中心に発展していたのに対し、ベルリナーのグラモフォンは、音の振動を横方向の溝としてディスクに記録する方式を採りました。これは、録音媒体をシリンダーからディスクへ広げる重要な転換点でした。

ベルリナーの実演は、1888年の録音史において、エジソンの改良フォノグラフやグラフォフォン系事業とは別の方向から録音技術の将来を示す出来事でした。のちに商業レコードの中心となるディスク録音は、この時点ではまだ実験段階にありましたが、複製、保存、流通に適した媒体として大きな可能性を持っていました。1888年は、シリンダー録音の実用化が進む一方で、ディスク録音の方向性も公の場に現れた年でした。

アメリカン・グラフォフォン・カンパニーとグラフォフォン系事業

アメリカン・グラフォフォン・カンパニーは、チチェスター・ベル(Chichester Bell, 1848–1924)とチャールズ・サムナー・テインター(Charles Sumner Tainter, 1854–1940)によるグラフォフォン技術を事業化する会社として発展しました。グラフォフォンは、紙管にワックス状の素材を塗布した交換可能なシリンダーを用い、口述や事務記録に使う装置として構想されていました。エジソンのフォノグラフとは別系統の技術でしたが、どちらも音声を記録し、再生する機械として、1880年代末の録音事業化を支える存在になりました。

1888年には、リピンコットがアメリカン・グラフォフォン・カンパニーから販売権を得たのち、エジソン側のフォノグラフ権利もまとめ、ノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニーのもとで両方式を扱う体制を作りました。これにより、フォノグラフとグラフォフォンは競合しながらも、同じ販売・貸出事業の枠組みに組み込まれていきました。グラフォフォン系事業は、のちのコロムビア系録音事業につながる重要な流れであり、1888年はその商業的な土台が整えられた年でもありました。

References