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1889年2月に録音された音楽

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1889年2月に録音された音楽

1889年2月は、政治制度、科学団体、録音再生技術の普及をめぐる動きが重なった月でした。日本では2月11日に大日本帝国憲法が発布され、近代国家制度の大きな節目となりました。アメリカ合衆国では、サンフランシスコで太平洋天文学会(Astronomical Society of the Pacific)の最初の会合が開かれ、観測と研究を支える学術団体の整備が進みました。また、総合雑誌『アトランティック・マンスリー(The Atlantic Monthly)』1889年2月号には論考『ザ・ニュー・トーキング・マシーンズ(The New Talking-Machines)』が掲載され、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)のフォノグラフやベル=テインター系のグラフォフォンが、専門家だけでなく一般読者に向けても紹介されました。

この月の音楽録音としては、1889年2月25日にニュージャージー州ウェスト・オレンジのエジソン研究所(Edison Laboratory)で録音された『The Pattison Waltz』が確認できます。エフィー・スチュワート(Effie Stewart, 生没年不明)が歌い、アデルベルト・テオドール・エドワード・ワンゲマン(Adelbert Theodor Edward Wangemann, 1855–1906)がピアノを担当したこの録音は、1889年2月に月日まで確認できる数少ない音楽シリンダー録音です。

この月の確認されている録音:2件

20日(1曲)

1889年3月25日付のニュー・ヘイブン・ニュース(New Haven News)掲載記事 “Concert Without Voices” では、1889年2月20日に録音された “Ave Maria” が、エジソン研究所で再生されたと報じられています。記事によれば、この録音はエフィー・スチュワート(Effie Stewart, 生没年不明)の歌唱と、モード・パウエル(Maud Powell, 1867–1920)のヴァイオリン・オブリガートによるものです。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Ave MariaEffie Stewart; Maud PowellEDIS 565

【1889年2月20日頃の出来事】
・アメリカ合衆国で4州編入へ向けた法が成立
アメリカ合衆国で、ノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントンの各地域を州として編入する手続きを定めた法律が成立しました。この法律により、同年11月までに4つの新しい州がアメリカ合衆国に加わる道筋が整いました。

25日(1曲)

1889年2月25日には、ニュージャージー州ウェスト・オレンジのエジソン研究所で『The Pattison Waltz』が録音されました。歌唱はエフィー・スチュワート、ピアノはワンゲマンで、録音者もワンゲマンとされています。アメリカ合衆国国立公園局の資料では、この録音に EDIS 565 という所蔵資料番号が付されていますが、これは所蔵機関側の管理番号であり、販売用カタログ番号ではありません。

TitleArtistMatrixCatalog No.
The Pattison WaltzEffie Stewart ; Theo WangemannEDIS 565

【1889年2月25日の出来事】
・ユニオン・ゴスペル・タバナクルの法人設立認可
アメリカ合衆国テネシー州で、のちのライマン公会堂(Ryman Auditorium)につながるユニオン・ゴスペル・タバナクル(Union Gospel Tabernacle)の法人設立認可が登録されました。この建物は当初、宗教集会のための施設として構想され、1892年に開場しました。20世紀には音楽興行の重要会場となり、のちにカントリー音楽史と深く結びつく場所になりました。

The Pattison Waltzとワンゲマンの録音技術

『The Pattison Waltz』は、単に1889年2月25日に録音された1曲というだけでなく、ワンゲマンがエジソン研究所で進めていた音楽録音技術の到達点を示す資料でもあります。ワンゲマンは1888年春からエジソンのもとでワックスシリンダー(wax cylinder)式蓄音機の開発に加わり、音楽をより明瞭に録音するための実験に携わっていました。

1888年末までには、一つの演奏を複数台の蓄音機に同時録音し、複数の「オリジナル」シリンダーを作る方法も用いられていました。この方法は、後年の大量複製とは異なりますが、同じ演奏を複数のシリンダーに残すための初期の工夫でした。『The Pattison Waltz』も、こうした研究所内の録音実験と展示用音楽シリンダーの流れの中に位置づけられます。

1889年1月の段階では、音楽シリンダーが展示や実演で用いられていたことは確認できても、曲名、演奏者、録音日を一件ずつ結びつけることは困難でした。これに対して『The Pattison Waltz』は、録音日、録音地、歌唱、ピアノ、録音者が確認できるため、1889年初期の音楽録音を具体的に追跡できる重要な録音です。

1889年2月の録音産業

1889年2月の録音産業では、音楽録音そのものだけでなく、それを支える会社制度、特許、機械製造、投資、展示、報道が同時に動いていました。ノース・アメリカン・フォノグラフ社(North American Phonograph Company)の地域会社制度は、フォノグラフとグラフォフォンを各地で扱うための営業網を広げ、コロンビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company)もその制度の中で事業上の位置を固めつつありました。エジソン側では、フォノグラフ関連特許の出願やトーキング・ドール用機構の製造調整が進み、録音技術を研究所内の実験にとどめず、事業化へ向けて整える動きが見られます。

同じ時期、ロンドンではグラフォフォン・シンジケート社(The Graphophone Syndicate, Limited)が目論見書を出し、ベル=テインター系のグラフォフォンを特許、資本募集、機械リース、シリンダー供給と結びつけて事業化しようとしていました。また、フォート・ハミルトン・バンド(Fort Hamilton band)の録音再生や、ジョージ・エドワード・グーロー(George Edward Gouraud, 1842–1912)経由でエジソンに届いた政治家らのフォノグラムは、録音された音が展示・実演・通信・国際的なニュースの対象になっていたことを示しています。1889年2月は、録音が単なる発明実演から、産業、投資、メディア、娯楽へ広がる過程がはっきり見える月でした。

ノース・アメリカンと地域会社制度

ノース・アメリカン・フォノグラフ社は、1889年2月の録音産業を考えるうえで、個別の音楽シリンダーの発売元というより、フォノグラフとグラフォフォンを各地へ広げるための事業上の中核でした。同社はジェシー・リピンコット(Jesse H. Lippincott, 1842–1894)によって1888年7月に設立され、エジソン系のフォノグラフとベル=テインター系のグラフォフォンを、営業区域ごとの地域会社制度を通じて扱う構想をとっていました。

この制度は、機械を販売して終わる方式ではなく、貸与、保守、操作、営業区域の管理を組み合わせたものでした。地域会社はそれぞれの区域で蓄音機を利用者へ届け、事業者や展示者が録音された音を聴かせる場を作っていきました。1889年2月に確認できる録音史上の動きは、発売用音楽シリンダーの豊富な目録ではありませんが、こうした地域会社制度によって、録音と再生を事業として扱う基盤が作られていました。

この仕組みの中で、コロンビア・フォノグラフ社のような地域会社が成立し、のちに娯楽用録音の制作と販売へ進んでいきます。1889年2月の段階では、音楽録音の作品数そのものよりも、録音機械を各地へ配置し、録音された音を事業として流通させるための制度設計が重要でした。

コロンビアの成立と2月12日の取締役会

コロンビア・フォノグラフ社は、1889年1月15日に設立され、ノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社として、ワシントン特別区、デラウェア州、メリーランド州を担当しました。同社は、ベル=テインター系のグラフォフォンとエジソン系のフォノグラフの双方を扱う地域拠点として出発し、首都圏とその周辺で録音再生機器を事業化する役割を担いました。

1889年2月12日に開かれた最初の取締役会では、エドワード・デニソン・イーストン(Edward Denison Easton, 1856–1915)が社長に選ばれ、ウィリアム・ハーバート・スミス(William Herbert Smith, 生没年不明)が副社長兼会計役に選ばれました。この人事からは、コロンビア・フォノグラフ社が地域会社として具体的に組織を整え、営業体制を固めていったことがわかります。

ただし、1889年2月の時点で、同社が音楽シリンダーを曲目単位で販売していたことは確認できません。現存資料で確認できる同社最初期の音楽シリンダー広告は1889年11月のもので、2月の段階では、録音作品の発売元というより、のちの娯楽録音事業につながる地域会社としての基盤を作っていた時期と位置づけられます。

エジソンのフォノグラフ関連特許

1889年2月11日には、エジソンのフォノグラフ関連特許が複数出願されました。対象には、特許第406,570号「フォノグラフ(Phonograph)」、特許第406,571号「フォノグラム・ブランクの処理方法(Process of Treating Phonogram-Blanks)」、特許第406,572号–第406,575号「フォノグラフ用自動判定装置(Automatic Determining Device for Phonographs)」、特許第437,425号「フォノグラフ・レコーダー(Phonograph-Recorder)」などが含まれます。

これらの特許は、個別の録音作品を示すものではありません。しかし、録音前のシリンダー素材をどう整えるか、録音・再生時に機械をどのように安定して動かすか、録音針や装置の位置をどのように制御するかといった問題に関わっています。つまり、音楽シリンダーを実際に残し、再生し、事業として扱うための技術的な土台を整える出願でした。

1889年2月の録音史では、『The Pattison Waltz』のように日付まで確認できる音楽録音がある一方で、録音媒体や機械そのものを改良する動きも同時に進んでいました。エジソンの特許出願群は、この時期のフォノグラフが実験用の装置から、反復利用できる録音再生機器へ移行しつつあったことを示しています。

グラフォフォン・シンジケート社の目論見書

1889年2月、ロンドンではグラフォフォン・シンジケート社の目論見書が発行されました。目論見書では、株式募集が1889年2月13日に始まり、同月15日に締め切られること、資本金が10万ポンドで、1株10ポンドの株式1万株に分けられていることが示されています。会社事務所で機械を試験できることも案内されており、グラフォフォンが単なる発明品ではなく、投資対象となる事業として提示されていたことがわかります。

同資料では、グラフォフォンは音声やその他の音を録音・再生する装置として説明されています。想定用途には、口述筆記、郵送による音声通信、議会演説や公的演説の記録、電話で話された言葉の保存、商店や倉庫での伝言、証言・説教・演説の保存などが含まれていました。音楽についても、音楽作品、歌、朗読を保存して反復再生する用途や、有名演奏者の歌や朗読を公共の場で聴かせる利用法が示されています。

この目論見書が重要なのは、録音再生技術を、特許、資本募集、機械リース、シリンダー供給を組み合わせた事業として構想している点です。1889年2月の録音産業では、エジソン系のフォノグラフだけでなく、ベル=テインター系のグラフォフォンも、イギリスで具体的な商業展開の対象になっていました。

フォート・ハミルトン・バンドのシリンダー

1889年2月15日付の『ピーターズバーグ・タイムズ(Petersburg Times)』には、フォート・ハミルトン・バンドの演奏を録音したワックスシリンダーが、ニュージャージー州リリウェリン・パーク(Llewellyn Park)で再生された様子が紹介されています。ワックスシリンダーはフォート・ハミルトンへ持ち込まれ、行進曲やクイックステップなどの演奏を記録したのち、リリウェリン・パークへ運ばれました。

再生時には、演奏者がその場にいないにもかかわらず、各楽器の音が聞き分けられるものとして伝えられました。これは、フォノグラフが声だけでなく合奏を記録し、別の場所で聴かせる装置として受け止められていたことを示しています。音は実演の場から切り離され、ワックスシリンダーに保存され、移動先で再び聴かれるものになりつつありました。

このシリンダーは、曲名や録音日を一件ずつ確定できる販売用録音ではありません。1889年2月の録音史においては、フォート・ハミルトン・バンドの演奏を記録し、別の場所で再生した実演例として位置づけられます。

グーロー経由でエジソンに届いたフォノグラム

1889年2月21日付のオーストラリア紙には、エジソンがグーローから複数のフォノグラムを受け取ったことが報じられました。そこには、ウィリアム・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)をはじめ、イギリスの政治家や公的地位にある人物の声が含まれていたとされています。

この出来事は、フォノグラフが単に研究所内で音を録音する装置にとどまらず、離れた場所で録音された声を別の国へ送り届ける媒体として受け止められていたことを示しています。声は手紙のように移動し、受け取った側で再生され、ニュースとして紹介される対象になっていました。

1889年2月の録音産業では、音楽録音だけでなく、演説や挨拶のような一回性の高い声も重要な録音対象になっていました。グーローを通じてエジソンに届いたフォノグラムは、録音された声が国境を越えて流通し、政治・通信・報道の領域にも広がっていたことを示す例です。

エジソン・フォノグラフ・トイ・マニュファクチャリング社宛書簡

1889年2月23日付の書簡では、エジソン側からエジソン・フォノグラフ・トイ・マニュファクチャリング社(Edison Phonograph Toy Manufacturing Company)のウィリアム・ホワイト・ジャック(William White Jacques, 1855–1932)に対し、ブリキ製レコードを切るための機械が必要なのか、それともそのレコードを再生するための機械が必要なのかを確認しています。書簡では、ジャックが2月21日付で問い合わせを送っていたこと、また製造契約案が用意され、数日中に承認のため持参される予定だったことも記されています。

このやりとりからは、エジソンのフォノグラフ技術が、展示や口述録音だけでなく、トーキング・ドール用の小型録音媒体と再生機構にも応用されようとしていたことがわかります。ブリキ製レコードを作る機械と、それを再生する機械が区別されている点は、玩具用の録音再生機構を実際に製造へ移す段階で、必要な装置や契約内容を具体的に詰めていたことを示しています。

1889年2月の録音産業では、音楽シリンダーや公開実演だけでなく、録音された声を組み込んだ玩具も事業化の対象になっていました。エジソン・フォノグラフ・トイ・マニュファクチャリング社宛の書簡は、録音技術が大人向けの実演装置から、家庭や子ども向けの商品へ広がろうとしていたことを示す資料です。

『Atlantic Monthly』「The New Talking Machines」

1889年2月号の『アトランティック・マンスリー』には、フィリップ・G・ヒューバート・ジュニア(Philip G. Hubert, Jr., 生没年未確認)による論考『ザ・ニュー・トーキング・マシーンズ』が掲載されました。この論考は、エジソンのフォノグラフとベル=テインター系のグラフォフォンを一般読者に向けて紹介し、録音再生技術がどのように日常生活へ入り込む可能性があるのかを具体的に描いています。

論考では、フォノグラフが口述筆記や手紙の代替だけでなく、朗読、演説、音楽、劇、新聞記事のような情報や娯楽を運ぶ媒体になりうるものとして扱われています。音楽については、歌、ピアノ、ヴァイオリン、コルネット、オーボエなどの再生に触れ、当時のフォノグラフがすでに音楽を印象的に再現できる装置として受け止められていたことがわかります。

一方で、論考はフォノグラフがまだ完全な商品として広く販売されていた段階ではなかったことも伝えています。完成した新型機は少数で、主に展示用として用いられており、販売時期についてもなお不確実でした。1889年2月の時点で、録音再生技術は強い期待を集めながらも、実験、展示、投資、事業化のあいだを進んでいた段階にありました。

タンブリッジ・ウェルズでのフォノグラフ講演

1889年2月20日、タンブリッジ・ウェルズ(Tunbridge Wells)のグレート・ホール(Great Hall)で、アーチボルド(Archibald, 生没年不明)によるトーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)のフォノグラフに関する講演が行われました。1889年3月1日付の『テレグラフィック・ジャーナル・アンド・エレクトリカル・レビュー(The Telegraphic Journal and Electrical Review)』は、大きな聴衆が集まり、講演者がフォノグラフの理論を専門的すぎない言葉で説明したと伝えています。

同記事によれば、講演ではフォノグラフ記録が再生され、出席者に強い印象を与えました。また、スライドによってフォノグラフの応用例、発明者の研究所、トーマス・アルヴァ・エジソンとジョージ・エドワード・グーロー(George Edward Gouraud, 1842–1912)の肖像が示されたことも確認できます。ただし、この資料からは、講演で音楽録音が再生されたことや、特定の演奏が録音されたことまでは確認できません。1889年2月時点で、フォノグラフはイギリスの公開講演の場でも、録音・再生の実演を通じて紹介されていました。

フランクリン研究所でのフォノグラフと電話の接続実験

1889年2月4日、フィラデルフィアのフランクリン研究所(Franklin Institute)で、ウィリアム・ジョセフ・ハマー(William Joseph Hammer, 1858–1934)が「Edison and His Inventions」と題する講演を行いました。1889年3月8日付の『テレグラフィック・ジャーナル・アンド・エレクトリカル・レビュー(The Telegraphic Journal and Electrical Review)』は、この講演がフランクリン研究所の月例公開講義の一つであり、トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)の発明全般とともに、改良型フォノグラフに関する複数の実演を含んでいたことを伝えています。

同記事によれば、この実演では、ニューヨークとフィラデルフィアを結ぶ長距離電話回線が使われました。エジソンの蝋円筒式フォノグラフから大音量の受話器へ音を送り、それをニューヨーク・フォノグラフ・プレイング・アンド・エキシビティング社(New York Phonograph Playing and Exhibiting Company)のブレイク式送話器に接続して、約90マイル離れたフィラデルフィアへ伝送したと説明されています。フィラデルフィア側では、複数の電話受信器を用いて、講堂内の聴衆が伝送された音を聴けるようにしていました。

1889年3月22日付の同紙「American Notes」欄も、フランクリン研究所で行われたこの新奇な演奏会に触れ、音楽がニューヨークからフォノグラフと長距離電話によって送られたと記しています。同欄では、「Patti’s choicest notes」と表現される音が回線を通じて送られ、数百人の聴衆が聴いたことが伝えられています。ただし、この表現が具体的にどの録音、どの演奏者、どの曲目を指すのかは資料上確認できません。

この実験は、フォノグラフを単独の録音・再生装置としてだけでなく、電話回線と組み合わせて遠隔地へ音楽や音声を届ける装置として扱った例です。1889年2月時点で、録音された音を保存する技術と、音を遠隔へ伝送する技術が、公開講演の場で結びつけられていたことがわかります。

References