1889年1月に録音された音楽

この記事は約10分で読めます。
スポンサーリンク

1889年1月に録音された音楽

1889年1月は、科学、行政、政治、社会の各分野で後年への影響が大きい出来事が重なった月でした。1月1日には北アメリカで皆既日食が観測され、同日にネヴァダ州でウォヴォカ(Wovoka, 生没年不明)が宗教的啓示を受けたとされる出来事は、のちのゴースト・ダンス運動(Ghost Dance movement)の拡大につながりました。1月4日にはアメリカ合衆国海洋病院局(Marine Hospital Service)の制服組制度が法的に承認され、近代的な公衆衛生体制の整備が進みました。1月8日にはハーマン・ホレリス(Herman Hollerith, 1860–1929)の統計集計機特許が成立し、大規模情報処理の歴史が前進しました。フランスでは1月27日にジョルジュ・エルネスト・ジャン=マリー・ブーランジェ(Georges Ernest Jean-Marie Boulanger, 1837–1891)がパリの補欠選挙で圧勝し、1月30日にはオーストリア皇太子ルドルフ・フォン・エスターライヒ(Rudolf von Österreich, 1858–1889)とマリー・ヴェツェラ(Mary Vetsera, 1871–1889)の心中事件(マイヤーリンク事件)がハプスブルク家の後継問題をめぐってヨーロッパ社会に衝撃を与えました。

この月の確認されている録音:0曲

1889年1月録音の「日付不明・月確定」音楽録音

1889年1月に録音されたと月まで確定し、なおかつ曲名まで特定できる音楽録音は確認できません。トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)の事業に関する主要記録簿『The First Book of Phonograph Records』では、発売用音楽シリンダーの記録簿である「Musical Cylinder Account」が1889年5月24日に始まります。そこではフランク・グーデ(Frank Goede, 生没年不明)のフルート独奏をはじめ、演奏内容を追跡しやすいかたちの記載が始まりますが、1889年1月については同じ水準の一覧が残っていません。コロンビア・フォノグラフ会社(Columbia Phonograph Company)の現存最初期広告小冊子も1889年11月15日で、1889年1月までさかのぼる販売用音楽シリンダーの題目表ではありません。

1889年1月に音楽シリンダーが存在しなかったわけではなく、展示用、実演用、営業用として用いられていたことを示す材料はあります。ただし、個々のシリンダーについて、曲名、演奏者、録音日、用途を現在のディスコグラフィーのように一件ずつ対応させることはできません。この月に確認できるのは、録音産業がすでに実用段階へ入りつつあったことと、発売用音楽シリンダーの体系的な記録が始まる前の段階にあったことです。そのため、1889年1月の特定作品として掲載できる音楽録音は未確認のままとなります。

ワンゲマンと展示用音楽シリンダー

1889年1月の録音の実態を示す具体例として、アデルベルト・テオドール・エドワード・ワンゲマン(Adelbert Theodor Edward Wangemann, 1855–1906)に関する記録があります。ワンゲマンはトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)のもとで音楽録音に深く関わった人物で、1888年春以降、エジソン研究所(Edison Laboratory)で音楽演奏の録音と、その供給方法の整備に従事していました。アメリカ合衆国国立公園局(National Park Service)の解説では、1888年末までに、一つの演奏を複数台の蓄音機に同時録音して複数の「オリジナル」シリンダーを得る方法が用いられていたことが説明されています。これは後年の大量複製とは異なる初期段階の方法ですが、同じ演奏内容を複数本のシリンダーとして供給するための実務上の工夫でした。

1889年1月付の書簡には、ワンゲマンが作るシリンダーの末尾に毎回付けられる独特の音楽的な締めが、オペラ抜粋にはふさわしくないという趣旨の苦情が記されています。この苦情は、録音の終わり方にまで注意が向けられていたことを示しており、音楽シリンダーが単なる実験室内の試作物ではなく、すでに聴取され、比較され、評価される対象になっていたことを物語っています。1889年1月の時点で、展示用または実演用の音楽シリンダーは供給されており、その利用者は内容だけでなく仕上がりにも反応していました。

この時期のシリンダーについては、演奏者名や曲名が十分に追えない例が多く残りますが、供給と聴取の実態は確かに存在していました。1889年1月の録音史は、曲目一覧の豊富さではなく、こうした展示用・実演用シリンダーが利用の場に出ていたことによって輪郭が見えてきます。

1889年1月の録音に関する情報のまとめ

1889年1月の録音関連史料に現れるのは、完成した商業音楽市場というより、機械、媒体、営業区域、地域会社を軸にした産業基盤の形成です。トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)の側では、蓄音機本体とシリンダーを継続的に供給する体制の整備が進み、ノース・アメリカン・フォノグラフ会社(North American Phonograph Company)の側では、地域子会社に営業区域を割り当てる方式が事業の骨格になっていました。コロンビア・フォノグラフ会社(Columbia Phonograph Company)はその地域会社の一つとして1889年1月に成立し、首都圏営業の拠点になりました。

この月に確認できる動きは、後年のように曲目を豊富に並べた発売一覧ではありません。機械の大量供給計画、演説録音への期待、展示用シリンダーの供給、地域会社制度の成立といった要素が、1889年1月の録音史を形作っています。のちに録音物が広く流通するためには、録音内容だけでなく、それを支える機械製造、営業体制、地域網、供給方法が先に整っている必要がありました。1889年1月は、その基礎が各所で具体化していた時期にあたります。

エジソン

トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)の改良型蓄音機は1888年までに市場へ出ていましたが、1889年1月の資料に現れるのは、個別曲目の発売よりも、機械と録音媒体を広く供給するための体制づくりです。1889年1月11日付の『Euroa Advertiser』は、ニュージャージー州オレンジに新工場と研究所が整備され、400〜500人を雇用して蓄音機の大量供給に備えていると報じています。この記事では、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)が蓄音機を自らの最重要発明として位置づけ、大量の機械と録音用シリンダーを広く供給する構想を語っていたことも紹介されています。1889年1月の段階で、蓄音機は発明品としての話題性を越え、継続的な供給を前提とする事業へ移ろうとしていました。

同月12日付の『Launceston Examiner』は、ウィリアム・エワート・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)の演説を受けるために、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)が特別な蓄音機を用意したと伝えています。実際に録音が行われたかどうかは確認できませんが、この報道は、蓄音機が音楽娯楽のためだけではなく、政治家の演説のような一回性の高い音声を保存する装置として受け止められていたことを示しています。1889年1月には、音楽、演説、展示、実演といった複数の用途がすでに意識されていました。

一方で、発売用音楽シリンダーの体系的な記録はまだ後の段階に属します。『The First Book of Phonograph Records』の「Musical Cylinder Account」は1889年5月24日に始まり、そこから先になると演奏者や内容を追いやすくなります。1889年1月のトーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)の項目で確認できるのは、製造能力の拡張、用途の拡張、供給環境の整備であり、発売用音楽シリンダーの具体的な曲目一覧ではありません。

ノース・アメリカン

ノース・アメリカン・フォノグラフ会社(North American Phonograph Company)は1888年7月に設立され、地域子会社に営業区域を割り当てる方式で事業を広げていました。アメリカ議会図書館(Library of Congress)の解説では、この方式がベル電話会社(Bell Telephone Company)の地域会社制度にならったものであり、各地域会社が厳密に定められた営業区域で蓄音機の貸与と保守を担ったことが説明されています。1889年1月の時点で録音産業に求められていたのは、単に発明品を展示することではなく、利用者のいる各地域に機械を届け、扱い方を説明し、保守を行い、契約を結ぶ体制でした。ノース・アメリカン・フォノグラフ会社(North American Phonograph Company)はその中核に位置していました。

この会社の役割は、のちのレコード会社のように豊富な作品目録を自社ブランドで並べることではなく、まず市場の骨格を作ることにありました。機械が存在し、機械を扱う営業体制が存在し、地域ごとに事業責任を持つ会社が存在して、初めて録音媒体の供給が広い範囲で成立します。1889年1月にはその構造がすでに動き始めており、録音物の流通はその上に築かれていきました。ノース・アメリカン・フォノグラフ会社(North American Phonograph Company)は、この段階では特定作品の発売元というより、録音産業全体の営業基盤を形作る事業体として位置づけられます。

コロンビア

コロンビア・フォノグラフ会社(Columbia Phonograph Company)は1889年1月に、ノース・アメリカン・フォノグラフ会社(North American Phonograph Company)の地域子会社として成立しました。担当地域はワシントン特別区、メリーランド州、デラウェア州です。後年の録音産業における大きな存在感から逆算してこの時期を見ると、すでに大規模な音楽会社であったかのように感じられますが、1889年1月の同社はまず首都圏営業を受け持つ地域拠点として始まりました。アメリカ議会図書館(Library of Congress)の録音史資料では、同社が1889年1月に地域子会社として形成され、同年11月までに独自の音楽シリンダーの録音と販売を始めていたことが示されています。

現存資料では、1889年2月12日の最初の取締役会でエドワード・D・イーストン(Edward D. Easton, 1856–1915)が社長、ウィリアム・ハーバート・スミス(William Herbert Smith, 生没年不明)が副社長兼会計係に選ばれたことが確認できます。この記録は、会社が実際の営業体として組織化されていたことを示します。一方で、現存する同社最初期の広告小冊子は1889年11月15日であり、そこに現れるのはすでに進展した段階の活動です。1889年1月の時点で自社の発売用音楽シリンダー一覧を挙げることはできません。

1889年1月のコロンビア・フォノグラフ会社(Columbia Phonograph Company)には、首都圏を担当する地域会社としての成立そのものに意味があります。地域子会社制度の中で首都圏の営業を担う会社が立ち上がり、その会社がのちに娯楽録音の中心企業の一つへ成長していく起点がこの時期に置かれました。1889年1月の録音史では、作品数の多さよりも、この企業の出発点が確認できることのほうが大きな位置を占めています。