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1889年7月の録音・音声記録

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1889年7月の録音・音声記録

1889年7月は、パリ万国博覧会(Exposition Universelle de 1889)が開催されるなか、7月8日にウォール・ストリート・ジャーナル(The Wall Street Journal)が創刊され、7月14日には第二インターナショナル(Second International)がパリで設立されました。産業化、大衆媒体、国際政治運動がそれぞれ新しい段階へ進みつつあった月であり、日本では7月28日に明治熊本地震が発生し、近代化の途上にあった社会基盤にも大きな被害をもたらしました。

録音史では、エジソン研究所(Edison Laboratory)で音楽シリンダー制作が継続され、『The First Book of Phonograph Records』にはこの月の多数の録音項目が記録されています。1889年7月の記録は、確認録音271件と、録音成立未確認として別掲する7月25日の1件に分けられます。同一曲の反復、数量欄の未確定、日付見出しの欠落、機械不稼働の注記も含まれており、初期録音が制作・複製・販売・展示の境界で運用されていた状況がうかがえます。さらに、ノース・アメリカン・フォノグラフ社(North American Phonograph Company)の地域会社制度、ニューヨーク・フォノグラフ社(New York Phonograph Company)やアイオワ・フォノグラフ社(Iowa Phonograph Company)の録音活動、コロンビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company)の音楽録音への転換、アメリカン・グラフォフォン社(American Graphophone Company)とヴォルタ研究所(Volta Laboratory)の技術系譜、エミール・ベルリナー(Emile Berliner, 1851–1929)の円盤式グラモフォン、エジソン・トーキング・ドール(Edison Talking Doll)の商品化準備も進み、録音と音声再生は実験技術から産業へと広がり始めていました。

この月の確認されている録音:271件
録音成立未確認として別掲:1件

1日(11件)

7月1日は、エジソン研究所でH・ギーゼマン(H. Giesemann, 生没年不明)によるピアノ録音が行われました。この日の台帳には11件の録音項目が記載されており、4台のみ稼働していたことと、シリンダー不足の注記も残されています。「Patrol comique」は台帳に記載されていますが、数量は資料上確認できません。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Northern Lights MarchH. Giesemann
Patrol ComiqueH. Giesemann
Jeunesse DoreéH. Giesemann
Slightly On The MashH. Giesemann
Jubilee SchottischH. Giesemann
Mendelssohn Wedding MarchH. Giesemann
Mendelssohn Wedding MarchH. Giesemann
The Lambs PolkaH. Giesemann
Funiculi Funicula PolkaH. Giesemann
Schweizer Hans RendevousH. Giesemann
San Tiago WaltzH. Giesemann

【1889年7月1日の出来事】
フレデリック・ダグラスの駐ハイチ公使兼総領事任命
アメリカ合衆国(United States of America)大統領ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison, 1833–1901)は、フレデリック・ダグラス(Frederick Douglass, 1818–1895)をハイチ共和国(Republic of Haiti)駐在の公使兼総領事に任命しました。奴隷制廃止運動家、著述家、演説家として知られたダグラスは、19世紀後半のアメリカ合衆国における黒人公職者の国際的な活動を象徴する人物の一人となりました。この任命日は、資料によって6月26日付とされる場合があります。

2日(2件)

1889年7月2日には、ミス・ランコウ(Miss Lankow, 生没年不明)とH・ギーゼマンによる声楽・ピアノ録音が2件記録されています。この日の台帳には、録音されたシリンダーをバイロイト(Bayreuth)へ送るため、数量記録を付けなかったことが記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Miss Lankow Erda’s Warning On Wotan RheingoldH. Giesemann
Es Muss Was Wunderbarres Sein by LisztH. Giesemann

【1889年7月2日の出来事】
ニューヨーク市の舗装と重車両問題
アメリカ合衆国では、ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)がニューヨーク市(New York City)の舗装問題を取り上げました。業務地区を行き交う馬車や荷車の重交通によって、石畳や花崗岩ブロックの舗装に轍や窪みが生じていることが報じられ、19世紀末の都市で道路、物流、商業活動を支えるインフラ整備が重要な課題になっていたことが示されました。

3日(9件)

1889年7月3日には、ジョン・ミットアウアー(John Mittauer, 生没年不明)によるコルネット録音が9件記録されています。この日の記録は、ポルカ、歌曲、変奏曲、メドレーを含み、A欄35、B欄10、合計45の数量が台帳に記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
My Dream Of LoveJohn Mitthauer
Celina PolkaJohn Mitthauer
EmilyJohn Mitthauer
Thine Eyes So BlueJohn Mitthauer
Annie LaurieJohn Mitthauer
Carnival Of VeniceJohn Mitthauer
Surf PolkaJohn Mitthauer
Free As A BirdJohn Mitthauer
Irish MedleyJohn Mitthauer

【1889年7月3日の出来事】
シアトル大火後のバトラー・ブロック建設計画報道
アメリカ合衆国のシアトル(Seattle)では、6月の大火後の再建が進むなか、シアトル・ポスト・インテリジェンサー(Seattle Post-Intelligencer)が、第二通りとジェームズ通りに建設予定の5階建て建物バトラー・ブロック(Butler Block)の計画を報じました。焼失した中心市街地では、れんが造りの大型建築による復興が進められ、都市再建と商業活動の回復が急がれていました。

5日(13件)

1889年7月5日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音が13件記録されています。この日は「Lost chord」が2回記録されており、同一曲の反復録音を含む構成です。台帳には、6台の機械が稼働していたことと、シリンダー不足の注記も残されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Lost ChordJohn Mitthauer
Lost ChordJohn Mitthauer
Washington Guard PolkaJohn Mitthauer
KillarneyJohn Mitthauer
Amusement PolkaJohn Mitthauer
Young America [Polka]John Mitthauer
Irish SongJohn Mitthauer
God Save The QueenJohn Mitthauer
German MedleyJohn Mitthauer
Brilliant PolkaJohn Mitthauer
Last Rose Of SummerJohn Mitthauer
Culver PolkaJohn Mitthauer
Blue Bells Of ScotlandJohn Mitthauer

【1889年7月5日の出来事】
ジャン・コクトーの誕生
フランス共和国(French Republic)のメゾン=ラフィット(Maisons-Laffitte)で、ジャン・コクトー(Jean Cocteau, 1889–1963)が生まれました。コクトーは20世紀に詩、演劇、小説、映画、美術など複数の分野で活動し、文学と視覚芸術を横断する表現者として知られるようになりました。

6日(10件)

1889年7月6日には、A・デイヴィス(A. Davis, 生没年不明)とJ・シュミット(J. Schmitt, 生没年不明)によるヴァイオリンとコルネットの録音が10件記録されています。この日は「Dorscht march」と「Carmen」がそれぞれ2回記録されており、同一曲の反復録音を含む構成です。台帳には、6台の機械が稼働していたことも記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Dorscht MarchA. Davis
J. Schmitt
Melodie In FA. Davis
J. Schmitt
Violettes WaltzA. Davis
J. Schmitt
Fatinitza Sel.A. Davis
J. Schmitt
Cecchino Song.A. Davis
J. Schmitt
Dorscht MarchA. Davis
J. Schmitt
CarmenA. Davis
J. Schmitt
CarmenA. Davis
J. Schmitt
Tid Bits MedleyA. Davis
J. Schmitt
Patrol ComiqueA. Davis
J. Schmitt

【1889年7月6日の出来事】
ウィンブルドン選手権女子シングルス決勝
イギリス(United Kingdom)では、ウィンブルドン選手権(The Championships, Wimbledon)の女子シングルス決勝が行われ、ブランシュ・ビングリー・ヒリヤード(Blanche Bingley Hillyard, 1863–1946)がレナ・ライス(Lena Rice, 1866–1907)を4–6、8–6、6–4で破りました。1880年代のウィンブルドン選手権は、近代スポーツが競技大会として制度化されていく過程にあり、この決勝も女子競技の初期史を示す出来事の一つです。

8日(12件)

1889年7月8日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音が12件記録されています。この日は「Visions of love waltz」が2回記録されており、ワルツ、ポルカ、ギャロップ、行進曲、舞曲系の小品を中心とする構成です。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Hungarian MarchH. Giesemann
Slightly On The MashH. Giesemann
Visions Of Love WaltzH. Giesemann
Visions Of Love WaltzH. Giesemann
Frolic GalopH. Giesemann
Fedora WaltzH. Giesemann
Hunters GreetingH. Giesemann
Selection MarquisH. Giesemann
Selection Marquis ContinuedH. Giesemann
Jubilee SchottischH. Giesemann
Coppelia MazurkaH. Giesemann
Hungarian PolkaH. Giesemann

【1889年7月8日の出来事】
ウォール・ストリート・ジャーナル創刊
アメリカ合衆国のニューヨーク市で、ウォール・ストリート・ジャーナルが創刊されました。金融・経済情報を扱う日刊紙として発行が始まり、証券市場や企業活動を日々伝える媒体として、近代的なビジネス報道の発展に関わっていきました。

9日(10件)

1889年7月9日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音を中心に、10件の録音項目が記録されています。この日の台帳では、冒頭3件に「No record kept」の注記があり、数量記録は付けられていません。続く7件のコルネット録音には、A欄43、B欄8、合計51の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
My love and I vocal by Miss Smith StewartMiss Smith Stewart
Pattison’s waltz – songN/A
Le pre aux clercsN/A
Low Back’d CarJ. Mittauer
Bonnie MaryJ. Mittauer
Polka BrillianteJ. Mittauer
Yankee Doodle Var.J. Mittauer
Cradle SongJ. Mittauer
Celina PolkaJ. Mittauer
Within A Mile Of EdinboroJ. Mittauer

【1889年7月9日の出来事】
ジェームズ・ポール・チャピンの誕生
アメリカ合衆国のニューヨーク市で、ジェームズ・ポール・チャピン(James Paul Chapin, 1889–1964)が生まれました。チャピンはのちに鳥類学者としてアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)に長く関わり、アフリカの鳥類研究で知られるようになりました。

10日(11件)

1889年7月10日には、G・ビュヒナー(G. Büchner, 生没年不明)によるフルート録音が11件記録されています。この日は「The nightingale in Italy」と「German song with var.」がそれぞれ2回記録されており、行進曲、歌曲、変奏曲、ポルカ、ワルツ、舞曲系の小品を含む構成です。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Wedding March MendellsohnMr. G. Büchner
The Nightingale In ItalyMr. G. Büchner
The Nightingale In ItalyMr. G. Büchner
Grazioso GavotteMr. G. Büchner
Sweet Angel Sleep WellMr. G. Büchner
Comrades marchMr. G. Büchner
German Song With Var.Mr. G. Büchner
German Song With Var.Mr. G. Büchner
Aesculop PolkaMr. G. Büchner
Paris Nouveau WaltzMr. G. Büchner
Dance Of The 16th CenturyMr. G. Büchner

【1889年7月10日の出来事】
ジュリア・ガーディナー・タイラーの死去
アメリカ合衆国のリッチモンド(Richmond)で、ジュリア・ガーディナー・タイラー(Julia Gardiner Tyler, 1820–1889)が死去しました。ジュリア・ガーディナー・タイラーは、ジョン・タイラー(John Tyler, 1790–1862)の妻として1844年から1845年まで大統領夫人を務めました。南北戦争後もワシントンで公的な社交に関わり、ホワイトハウスの大統領夫人肖像画コレクションの形成にも関係しました。

11日(12件)

1889年7月11日には、G・ビュヒナーによるフルート録音が12件記録されています。この日は行進曲、ガヴォット、セレナーデ、マズルカ、変奏曲、ワルツ、ポルカなどを含む構成で、台帳にはA欄58、B欄10、合計68の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Athalia March MendelssohnMr. G. Buechner
L’Ingenue GavotteMr. G. Buechner
Moszkowski SerenadeMr. G. Buechner
Alpine Violets MazurkaMr. G. Buechner
Ye Pretty Birds Var.Mr. G. Buechner
Happy Hours SchottischMr. G. Buechner
Waltz Pearl Of PekinMr. G. Buechner
Nadjy SelectionMr. G. Buechner
Gypsy Rondo HaydnMr. G. Buechner
Lili PolkaMr. G. Buechner
Jubilee SchottischMr. G. Buechner
Santiago WaltzMr. G. Buechner

【1889年7月11日の出来事】
ティフアナの公式な都市成立
メキシコ合衆国(United Mexican States)のバハ・カリフォルニア(Baja California)で、現在のティフアナ(Tijuana)の公式な都市成立につながる手続きが行われました。アメリカ合衆国との国境に接するこの地域は、当初は小規模な集落でしたが、のちに国境交通、観光、商業、製造業を支える都市へと発展していきました。

12日(10件)

1889年7月12日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音が10件記録されています。この日は歌曲、ポルカ、行進曲、宗教歌を含む構成で、台帳にはA欄59、B欄11、合計70の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
I’m So LonelyJ. Mittauer
Hattie PolkaJ. Mittauer
Irish SongJ. Mittauer
Emily PolkaJ. Mittauer
DreamingJ. Mittauer
Lizzie PolkaJ. Mittauer
Marching Through GeorgiaJ. Mittauer
For Ever & For EverJ. Mittauer
Massa’s In De Cold GroundJ. Mittauer
Sweet Bye & ByeJ. Mittauer

【1889年7月12日の出来事】
ワシントン準州憲法制定会議の進行
ワシントン準州(Washington Territory)では、オリンピア(Olympia)で開かれていたワシントン準州憲法制定会議(Washington State Constitutional Convention)の作業が進められていました。同会議は7月4日に始まり、8月22日まで続き、同年のワシントン州成立へ向けた州憲法案の作成を担いました。7月12日には、会議の組織化や委員会構成に関する新聞報道も行われ、準州から州への移行に向けた政治手続きが進行していました。

13日(8件)

1889年7月13日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音が8件記録されています。この日は行進曲、セレクション、ワルツ、ポルカ、ラグタイム以前のダンス系小品を含む構成で、台帳にはA欄28、B欄16、合計44の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Norther Lights MarchH. Giesemann
Clover SelectionH. Giesemann
Auf Wiedersehn WaltzH. Giesemann
Love Letters PolkaH. Giesemann
Razzle DazzleH. Giesemann
Jubilee SongsH. Giesemann
Swinging WaltzH. Giesemann
Schottisch PeteH. Giesemann

【1889年7月13日の出来事】
エミール・スタング第一次内閣の発足
スウェーデンとの同君連合下にあったノルウェーで、エミール・スタング第一次内閣(Emil Stang’s First Government)が発足しました。エミール・スタング(Emil Stang, 1834–1912)は保守党の政治家で、ヨハン・スヴェルドルップ内閣(Johan Sverdrup’s Government)の退陣を受けて政権を担いました。この内閣は1891年3月6日まで続き、19世紀末のノルウェー政治における議会制度と政党政治の展開に関わりました。

15日(10件)

1889年7月15日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音8件と、ランコウ夫人(Mrs. Lankow, 生没年不明)による声楽録音2件が記録されています。この日は「Lady Betty Old English dance」が2回記録されており、ピアノ小品と声楽録音が同じ日付内に並ぶ構成です。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Lady Betty Old English DanceH. Giesemann
Lady Betty Old English DanceH. Giesemann
Sinnen Und Minnen WaltzH. Giesemann
The Lambs PolkaH. Giesemann
Viola GavotteH. Giesemann
Eda PolkaH. Giesemann
Prince Methusalen Sel.H. Giesemann
Comique PolkaH. Giesemann
Mignon ariaMrs. Lankow
VerlassenMrs. Lankow

【1889年7月15日の出来事】
ペドロ2世暗殺未遂事件
ブラジル帝国(Empire of Brazil)のリオデジャネイロ(Rio de Janeiro)で、皇帝ペドロ2世(Pedro II, 1825–1891)が劇場を出たあと、乗っていた馬車に向けて銃撃されました。銃弾は命中せず、負傷者は出ませんでしたが、同年11月のブラジル帝政崩壊を前に、共和制をめぐる政治的緊張が高まっていた時期の出来事でした。

16日(14件)

1889年7月16日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音13件と、W・キーラー(W. Keeler, 生没年不明)によるピアノ独奏1件が記録されています。この日は「Leviathan Polka」が2回記録されており、声楽曲の器楽編曲、ポルカ、歌曲、宗教曲を含む構成です。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Les RameauxJ. Mittauer
InflammatusJ. Mittauer
Aria “Trovatore”J. Mittauer
Forget Me NotJ. Mittauer
Then You’ll Remember MeJ. Mittauer
When The Swallows etc.J. Mittauer
Arbuckle PolkaJ. Mittauer
No Crown Without The CrossJ. Mittauer
Favorite, TheJ. Mittauer
Leviathan PolkaJ. Mittauer
Leviathan PolkaJ. Mittauer
Irish SongJ. Mittauer
The Low Back’d CarJ. Mittauer
Romanza SchumanW. Keeler

【1889年7月16日の出来事】
パシフィック・グローブの市制施行
アメリカ合衆国カリフォルニア州(State of California)モントレー郡(Monterey County)で、パシフィック・グローブ市(City of Pacific Grove)が市制施行しました。同市は1875年に夏季の宗教的集会地として始まり、1889年の市制施行後、モントレー湾岸の住宅地・観光地として発展していきました。

日付不明(7月16日後–7月19日前)(25件)

この25件は、台帳上では7月16日の記録の後、7月19日の記録の前に置かれていますが、独立した日付見出しは記されていません。内容は、G・ビュヒナーによるフルート録音13件と、H・ギーゼマンによるピアノ録音12件で構成されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Bolero. Sicilian vespers.G. Buechner
Aria DinorahG. Buechner
Quartett RigolettoG. Buechner
Aria Traviata IG. Buechner
MazurkaG. Buechner
HeimwehG. Buechner
Aria Traviata IIG. Buechner
Barcarolle TeerschakG. Buechner
Spanish Dances MoskowskiG. Buechner
Spanish Dances MoskowskiG. Buechner
Aria HugenottenG. Buechner
The Power Of Love. BalfeG. Buechner
Aria ErnaniG. Buechner
Noblesse capriceH. Giesemann
1 heart 1 soul mazourkaH. Giesemann
Dancing in the barnH. Giesemann
Selection NadjyH. Giesemann
Hornpipe polkaH. Giesemann
Waltz you & youH. Giesemann
Prince Methusalen Sel.H. Giesemann
Fleurette IntermezzoH. Giesemann
Schweizer Hans RendevousH. Giesemann
Said Pasha Sel.H. Giesemann
Said Pasha Sel.H. Giesemann
Dash galopH. Giesemann

【1889年7月16日後–7月19日前の出来事】
第二インターナショナル創立大会の継続
パリでは、7月14日に始まった第二インターナショナルの創立大会が続いていました。この大会では、各国の社会主義政党や労働運動の代表が集まり、国際的な労働運動の連携、労働時間、政治参加などをめぐる議論が行われました。1889年のパリは、パリ万国博覧会とフランス革命100周年の記憶が重なる場でもあり、政治運動と国際的な集会が同時に可視化された時期でした。

19日(10件)

1889年7月19日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音8件と、ミス・エイミー・マレー(Miss Amy Murray, 生没年不明)およびマスター・L・フェアラム(Master L. Fairlamb, 生没年不明)による二重唱2件が記録されています。台帳には、フェアラム氏一行が到着したことも記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Aria TrovatoreJ. Mittauer
Fantasia FavoriteJ. Mittauer
KillarneyJ. Mittauer
Concert PolkaJ. Mittauer
Bonnie Sweet BessieJ. Mittauer
Celina PolkaJ. Mittauer
Home Sweet HomeJ. Mittauer
Culver PolkaJ. Mittauer
Merry JuneMiss Amy Murray
Master L. Fairlamb
God keep you safe, my little loveMiss Amy Murray
Master L. Fairlamb

【1889年7月19日の出来事】
カーネギー・ミュージック・ホール建設準備の進行
ニューヨーク市では、のちにカーネギー・ホール(Carnegie Hall)として知られる音楽ホールの建設準備が進んでいました。1889年7月時点で用地取得と掘削が進み、建設計画は具体化していました。このホールは、のちにクラシック音楽、演説、公開行事の重要な会場となり、近代都市における大規模音楽ホールの象徴的存在となっていきました。

20日(10件)

1889年7月20日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音が10件記録されています。この日はポルカ、ワルツ、セレクションを中心とする構成で、台帳にはA欄42、B欄0、合計42の数量が記されています。あわせて、シリンダー不足の注記も残されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Hungarian PolkaH. G.
Banq Bouquet PolkaH. G.
Seelenliebe WaltzH. G.
Santiago WaltzH. G.
Slightly On The MashH. G.
ReligoH. G.
Selection CloverH. G.
Eshana WaltzH. G.
Blue Bird MazurkaH. G.
L’esprit Francaise PolkaH. G.

【1889年7月20日の出来事】
第二インターナショナル創立大会の閉会
パリでは、7月14日から開かれていた第二インターナショナルの創立大会が閉会しました。この大会では、国際的な労働者運動の連携、労働時間、労働保護立法、政治参加などが議論され、翌1890年5月1日に各国で労働時間短縮を求める国際的な示威行動を行う方針も示されました。のちのメーデーにつながる決議を含む点で、19世紀末の労働運動史において重要な会議となりました。

22日(15件)

1889年7月22日には、エミール・シェック(Emil Scheck, 生没年不明)によるクラリネット録音が15件記録されています。この日は「Loin du ball」と「Fantasie Rigoletto」がそれぞれ2回記録されており、クラリネット独奏による行進曲、変奏曲、幻想曲、ポルカ、ワルツを含む構成です。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Dorscht MarchEmil Scheck
Aria Sonnambula Var.Emil Scheck
Loin Du BallEmil Scheck
Loin Du BallEmil Scheck
Fantasie RigolettoEmil Scheck
Slightly On The MashEmil Scheck
Air Varie IIEmil Scheck
PolonaiseEmil Scheck
Dancing In The BarnEmil Scheck
Must We Meet & Var.Emil Scheck
Fantasie RegolettoEmil Scheck
Eda PolkaEmil Scheck
Hungarian PolkaEmil Scheck
Pearl Of Pekin WaltzEmil Scheck
New Paris WaltzEmil Scheck

【1889年7月22日の出来事】
ジェームズ・ホエールの誕生
イギリスのダドリー(Dudley)で、ジェームズ・ホエール(James Whale, 1889–1957)が生まれました。ホエールはのちに舞台演出家・映画監督として活動し、『フランケンシュタイン(Frankenstein)』『透明人間(The Invisible Man)』『フランケンシュタインの花嫁(Bride of Frankenstein)』など、1930年代のユニバーサル・ピクチャーズ(Universal Pictures)によるホラー映画で知られる存在となりました。

23日(12件)

1889年7月23日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音が12件記録されています。この日はポルカ、幻想曲、変奏曲、歌曲、民謡系旋律を含む構成で、台帳にはA欄85、B欄5、合計90の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Polka BrilliantJ. Mittauer
FantasieJ. Mittauer
Tyrolean AirJ. Mittauer
Washinton PolkaJ. Mittauer
Then You’ll Remember MeJ. Mittauer
Carnival Of VeniceJ. Mittauer
Amusement PolkaJ. Mittauer
Fantasie Un Ballo, etc.J. Mittauer
Last Rose Of SummerJ. Mittauer
Hattie PolkaJ. Mittauer
American AirsJ. Mittauer
DreamingJ. Mittauer

【1889年7月23日の出来事】
フランクリン・フレデリック・コレルの誕生
アメリカ合衆国オレゴン州(State of Oregon)ポートランド(Portland)で、フランクリン・フレデリック・コレル(Franklin Frederick Korell, 1889–1965)が生まれました。コレルはのちに弁護士として活動し、1927年から1931年までアメリカ合衆国下院(United States House of Representatives)議員を務めました。

24日(21件)

1889年7月24日には、エミール・シェックによるクラリネット録音11件と、H・ギーゼマンによるピアノ録音10件が記録されています。台帳では、同じ7月24日の記録が2か所に分かれて記されており、前半はクラリネット独奏、後半はピアノ独奏で構成されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Funiculi FuniculaE. Scheck
Funiculi FuniculaE. Scheck
Aria Regoletto var.E. Scheck
Dreams Of Childhood WaltzE. Scheck
Cavatina RaffE. Scheck
Air With VariationsE. Scheck
Jubilee SchottischE. Scheck
Hungarian PolkaE. Scheck
Aria SonnambulaE. Scheck
Loin Du BalE. Scheck
Viena GalopE. Scheck

※※出典元の『The First Book of Phonograph Records』では、下のテーブルに記載した8件は7月26日の後、7月29日の前に「7月24日」として追記されています。そのため当サイトでは、24日の録音を2つのテーブルに分けて掲載しています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Amazon MarchH. G.
Amazon MarchH. G.
Fedora WaltzH. G.
Dianelli PolkaH. G.
Sweet Dream WaltzH. G.
Clover. Selection, No. 1H. G.
Clover. Selection, No. 2H. G.
Kentucky GalopadeH. G.
Kentucky GalopadeH. G.
Pomone WaltzH. G.

【1889年7月24日の出来事】
アグネス・メイヤー・ドリスコル(Agnes Meyer Driscoll, 1889–1971)
アグネス・メイヤー・ドリスコル(Agnes Meyer Driscoll, 1889–1971)は米国でこの日に生まれ、のちに米海軍の民間暗号解読者として日本海軍暗号「D」の解読などに貢献しました。女性でありながら海軍暗号解読の中心に立った人物です。

25日(1件・録音成立未確認)

1889年7月25日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音として「Amazon march」が記載されています。ただし、同じ欄に「Machines not running」とあるため、この録音が成立したかどうかは資料上確認できません。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Amazon MarchH. G.

【1889年7月25日の出来事】
ウィメンズ・フランチャイズ・リーグの結成
イギリスのロンドン(London)で、ウィメンズ・フランチャイズ・リーグ(Women’s Franchise League)が結成されました。同団体は、女性参政権運動のなかでも既婚女性を含む女性の投票権を求めた組織で、19世紀末のイギリスにおける女性の政治参加をめぐる運動の一部を担いました。

26日(15件)

1889年7月26日には、ジョン・ミットアウアーによるコルネット録音が15件記録されています。この日は「Sea flower polka」と「Low back’d car」がそれぞれ2回記録されており、歌曲、ポルカ、幻想曲、民謡系旋律を含む構成です。台帳にはA欄76、B欄10、合計86の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Golden LoveJ. Mittauer
Life’s StoryJ. Mittauer
Sea Flower PolkaJ. Mittauer
Sea Flower PolkaJ. Mittauer
Some DayJ. Mittauer
Low Back’d CarJ. Mittauer
Low Back’d CarJ. Mittauer
Surf PolkaJ. Mittauer
Leave Me Not Dear heartJ. Mittauer
Emily PolkaJ. Mittauer
FantasieJ. Mittauer
AmericaJ. Mittauer
Irish MedleyJ. Mittauer
Annie LaurieJ. Mittauer
Melodie In FJ. Mittauer

【1889年7月26日の出来事】
河相達夫の誕生
日本の広島県で、河相達夫(1889–1966)が生まれました。河相達夫はのちに外交官として活動し、外務省情報部長、駐オーストラリア公使、情報局総裁兼外務次官などを務めました。第二次世界大戦末期から終戦直後にかけて、外交・情報行政・終戦処理に関わった人物です。

29日(17件)

1889年7月29日には、エミール・シェックとM・F(M.F., 生没年不明)によるクラリネット・ピアノ録音が17件記録されています。この日はクラリネットとピアノによる録音を中心に、ピアノ独奏として記された項目も含まれます。第8項目の「Schottisch “Dancing in the barn”」は、数量欄が疑問符で記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
March “Vice Admiral”E. Scheck
M. F.
Loin Du BalE. Scheck
M. F.
Solo SonnambulaE. Scheck
M. F.
Polka “Eda”E. Scheck
M. F.
Galop “Vinea”E. Scheck
M. F.
Air With VariationsE. Scheck
M. F.
Schottisch “Dancing In The Barn”E. Scheck
M. F.
Schottisch “Dancing In The Barn”E. Scheck
M. F.
Polka “Delightful Time”M. F.
Polka “Delightful Time”M. F.
RigolettoE. Scheck
M. F.
Waltz “Dreams Of Childhood”E. Scheck
M. F.
PolonaiseE. Scheck
Must we then meet as strangers With variat.E. Scheck
M. F.
PolonaiseE. Scheck
Theme With Variat. IE. Scheck
M. F.
Theme With Variat. IE. Scheck
M. F.

【1889年7月29日の出来事】
エルンスト・ロイターの誕生
ドイツ帝国(German Empire)のアーペンラーデ(Apenrade、現在のデンマーク王国(Kingdom of Denmark)のオーベンロー(Aabenraa))で、エルンスト・ロイター(Ernst Reuter, 1889–1953)が生まれました。ロイターはのちに社会民主党の政治家となり、第二次世界大戦後の西ベルリン(West Berlin)市長として、ベルリン封鎖期の都市政治を象徴する人物となりました。

30日(8件)

1889年7月30日には、M・Fによるピアノ録音が8件記録されています。この日は行進曲、ギャロップ、ワルツ、マズルカ、ポルカを含む構成で、「Anniversary march」と「Galop “Shooting star”」がそれぞれ2回記録されています。「March “Greeting to America”」は台帳に記載されていますが、数量は資料上確認できません。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Anniversary MarchM. F.
Anniversary MarchM. F.
Galop “Shooting Star”M. F.
Galop “Shooting Star”M. F.
Waltz “Sweet Dreams”M. F.
Mazurka “Fate Morgana”M. F.
Polka “Marie”M. F.
March “Greeting to America”M. F.

【1889年7月30日の出来事】
ウィルコックス反乱の発生
ハワイ王国(Kingdom of Hawaii)のホノルル(Honolulu)で、ロバート・ウィリアム・ウィルコックス(Robert William Wilcox, 1855–1903)が蜂起を起こしました。この蜂起は、1887年憲法で制限された王権の回復を求める動きの一部で、武装勢力はイオラニ宮殿(ʻIolani Palace)周辺を占拠しましたが、同日中に鎮圧されました。ウィルコックスはのちに反逆罪で裁判にかけられましたが、陪審により無罪となりました。

31日(7件)

1889年7月31日には、H・ギーゼマンによるピアノ録音が7件記録されています。この日はポルカを中心とする構成で、「Gambrinus [polka]」が2回記録されています。台帳にはA欄17、B欄5、合計22の数量が記されています。

TitleArtistMatrixCatalog No.
Comique PolkaH. G.
Boquet [Polka]H. G.
Ticklish Wailer [Polka]H. G.
L’Esprit Francaise [Polka]H. G.
Gambrinus [Polka]H. G.
Gambrinus [Polka]H. G.
The Lambs [Polka]H. G.

【1889年7月31日の出来事】
ホレイシャス・ボナーの死去
スコットランドのエディンバラ(Edinburgh)で、ホレイシャス・ボナー(Horatius Bonar, 1808–1889)が死去しました。ボナーは長老派の牧師、詩人、賛美歌作者として活動し、『Hymns of Faith and Hope』などの賛美歌集で知られました。19世紀の英語圏の宗教詩と賛美歌文化に関わった人物です。

1889年7月の録音に関する情報

1889年7月の録音・音声記録は、エジソン研究所の音楽シリンダー制作を中心にしながらも、地域会社による公開実演、外部での録音活動、録音媒体の供給、技術実験、国際展示、円盤式録音の進展へと広がっていました。『The First Book of Phonograph Records』の台帳には、日々の録音項目だけでなく、稼働機械数、シリンダー不足、数量未確認、録音成立未確認を示す注記も残されており、初期録音がまだ安定した商品制作の段階に達していなかったことがうかがえます。同時に、ノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社制度を通じて、録音と再生は研究所内の実験から、展示、販売、巡回実演、地域市場へと展開し始めていました。

ヴァンゲマン渡欧後の録音体制

テオ・ヴァンゲマン(Theo Wangemann, 1855–1906)は、1889年6月15日にヨーロッパへ向けて出発しました。目的は、パリ万国博覧会でのフォノグラフ展示を、エジソン研究所で得られていた水準に近づけることでした。そのため、1889年7月の音楽シリンダー制作は、ヴァンゲマンが不在の状態で継続されました。

この時期のエジソン研究所では、ヘイゲン(Hagen, 生没年不明)が音楽シリンダー制作を担当していたとみられます。ウォルター・ミラー(Walter Miller, 生没年不明)はヴァンゲマン出発時点ではウィスコンシン方面に出張しており、8月初めには研究所へ戻ってヘイゲンとともに音楽シリンダーを扱っていたことが確認できます。7月の台帳に多数の録音項目が続けて記録されていることから、ヴァンゲマン不在後も録音作業は停止せず、演奏者を研究所に招きながら、販売・展示用の音楽シリンダー制作が継続していたことがわかります。

『The First Book of Phonograph Records』に見る7月の録音管理

この台帳の1889年7月分には、曲名と演奏者だけでなく、録音作業の状態を示す注記も複数残されています。7月1日には、4台のみ稼働していたこととシリンダー不足が記され、7月2日には、バイロイトへ送る録音のため数量記録を付けなかったことが示されています。7月9日の冒頭3件には「No record kept」とあり、7月25日には「Machines not running」と記されているため、少なくとも一部の録音項目では、通常の数量管理や録音成立を確認できない状態がありました。

7月の記録では、同一曲が複数回記載される例も多く、録音が単一の演奏記録ではなく、複数のシリンダーを作るための反復作業として行われていたことがうかがえます。また、数量欄に「– — –」「- – -」や疑問符が残る項目もあり、すべての録音が同じ精度で管理されていたわけではありません。1889年7月の台帳は、音楽シリンダー制作が継続的に行われていたことを示す一方で、機械稼働数、材料供給、数量記録、録音成立の確認がまだ不安定だったことも伝えています。

ランコウ夫人とバイロイト向け声楽録音

この台帳には、7月2日に「Miss Lankow」、7月15日に「Mrs. Lankow」の声楽録音が記録されています。両者が同一人物かどうかは、この台帳だけでは確認できません。7月2日の記録では、H・ギーゼマンのピアノ伴奏により、『ラインの黄金』に関係する「Erda’s warning on Wotan Rheingold」と、フランツ・リスト(Franz Liszt, 1811–1886)の作品として記された「Es muss ein was wunderbarres zein sein」が録音項目として残されています。

7月2日の欄には、これらのシリンダーをバイロイトへ送るため、数量記録を付けなかったことが記されています。バイロイトはリヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner, 1813–1883)とバイロイト音楽祭の都市として知られており、この記録は、エジソン研究所の音楽シリンダー制作が、ワーグナー作品やヨーロッパの音楽圏と接点を持っていたことを示しています。7月15日には、ランコウ夫人による「Mignon aria」と「Verlassen」も記録されており、7月の台帳には器楽録音だけでなく、声楽録音も含まれていたことが確認できます。

アンナ・ランコウ

アンナ・ランコウ(Anna Lankow, 生没年不明)は、アリオン・シンギング・ソサエティー(Arion Singing Society)のメンバーとして確認できる声楽家です。1889年5月16日にはヴァンゲマン宛の書簡が確認され、6月1日の台帳記録にも関係が見られます。7月2日のバイロイト向けフォノグラムも、ランコウからエジソン宛と推定される書簡およびこの台帳の記録と関連づけられています。

ただし、この台帳上の表記は7月2日が「Miss Lankow」、7月15日が「Mrs. Lankow」であり、台帳だけから両者が同一人物であるとは断定できません。アンナ・ランコウはその後もヴァンゲマンの協力を得ながらフォノグラフを利用し、1902年には声楽教育に関する著書『The Science of the Art of Singing』を刊行しました。ヴァンゲマンも同書に寄稿しており、ランコウの活動は、初期録音が音楽教育や声楽研究とも接点を持っていたことを示しています。

ノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社制度と娯楽録音

ノース・アメリカン・フォノグラフ社は、フォノグラフとグラフォフォンを直接販売するのではなく、地域会社を通じて貸し出す方式を採っていました。各地域会社には営業区域が割り当てられ、当初は事務用の口述記録機としての利用が重視されていましたが、実際には録音済みシリンダーを聴かせる公開実演や展示も重要な役割を持ち始めていました。

エジソン研究所で作られた音楽シリンダーは、エジソン・フォノグラフ・ワークス(Edison Phonograph Works)で複製され、地域会社のショールームでの実演、フォノグラフ・コンサート、展示用の音源として使われました。1889年7月の録音は、研究所内の制作記録であると同時に、地域会社を通じて各地の聴衆へ届けられる音源供給の一部でもありました。ただし、この時点で地域会社が自由に独自録音を販売できる体制が一般化していたわけではなく、地域会社による独自録音と販売が制度上大きく広がるのは、1890年以降の動きとして整理する必要があります。

ニューヨーク・フォノグラフ社の公開実演と巡回録音

ニューヨーク・フォノグラフ社では、1889年夏にエドワード・ハワード・ロウ(Edward Howard Low, 生没年不明)がニューヨーク州北部の一部地域でフォノグラフとグラフォフォンの紹介を担当していました。ロウの活動には、機械を公開の場で実演することだけでなく、各地で録音可能な人物を見つけて記録することも含まれていました。会社の記録には、ロウに対する支払いのなかに、コニー・アイランド(Coney Island)などでの録音に関する項目も見られます。

1889年7月には、アルバニー(Albany)やサラトガ(Saratoga)での公開実演が新聞で報じられました。これらの報道から、地域会社の実演では、研究所で作られた音楽シリンダーを再生するだけでなく、公開の場で聴衆に録音と再生の体験を示すことが重視されていたことがわかります。ただし、ロウが各地で録音した音源の個別曲名、録音本数、現存状況は、資料上確認できません。

アイオワ・フォノグラフ社と『The Bohemian Girl』出演者録音

アイオワ・フォノグラフ社では、1889年7月にゼネラル・マネージャーのジー・エー・ビーチ(G. A. Beach, 生没年不明)が、スーシティ(Sioux City)のピーヴィー・グランド(Peavey Grand)で上演された『ボヘミアン・ガール(The Bohemian Girl)』の出演者を録音する許可を得ました。録音対象には、ボストニアンズ(The Bostonians)の出演者であるジェシー・バートレット・デイヴィス(Jesse Bartlett Davis, 生没年不明)、H・C・バーナビー(H. C. Barnabee, 生没年不明)、マリー・ストーン(Marie Stone, 生没年不明)らが含まれていました。

劇場での録音結果は、イヤーチューブを用いなければ十分に聞き取れない状態だったため、同社の事務所でも追加録音が行われました。ただし、その結果も安定したものではありませんでした。この事例は、地域会社が研究所から供給される音楽シリンダーを再生するだけでなく、地元の劇場・出演者を対象に録音を試みていたことを示しています。一方で、録音された個別曲名、録音本数、現存状況は資料上確認できません。

アラバマ・フォノグラフ社の公開実演

アラバマ・フォノグラフ社(Alabama Phonograph Company)は、1889年に設立されたノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社で、アラバマ州を営業区域としていました。同社は、事務用途のフォノグラフ設置を主な事業としていたとみられますが、娯楽装置としての公開実演も行っていました。

1889年7月には、ジェームズ・R・ロバーツ(James R. Roberts, 生没年不明)が、アラバマ州バーミングハムのバーミングハム・オペラ・ハウス・ホテル(Birmingham Opera House Hotel)でフォノグラフを実演し、歌唱、詩、会話の録音を再生したことが報じられています。この事例は、地域会社が初期の段階から、フォノグラフを口述記録機としてだけでなく、聴衆に音声再生を体験させる娯楽・展示装置としても扱っていたことを示しています。ただし、同社自身が1889年7月に独自録音を制作したかどうか、また再生されたシリンダーの個別タイトルや現存状況は、資料上確認できません。

ノース・アメリカン・フォノグラフ社の価格表と商業供給

1889年5月28日付の『North American Phonograph Company Price List of Supplies No. 1』は、フォノグラフ事業が研究所内の実験や個別の公開実演だけでなく、機械、部品、シリンダーなどを継続的に供給する商業体制へ移ろうとしていたことを示す資料です。ノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社制度では、各地域会社が機械や関連用品を扱い、口述記録、公開実演、展示、娯楽録音の再生に利用していました。

1889年7月の台帳に見られるシリンダー不足や稼働機械数の注記は、この商業供給体制がまだ安定していなかったことを示しています。音楽シリンダーはエジソン研究所で録音され、エジソン・フォノグラフ・ワークスで複製され、地域会社の実演や展示で使われましたが、大量生産の方法はまだ十分に確立していませんでした。そのため、1889年7月の音楽録音は、販売・展示用の供給を支える制作活動であると同時に、材料、機械、複製技術の制約を受けながら進められていた初期商業録音の実例として位置づけられます。

蝋管素材と音楽シリンダーの技術実験

1889年7月の音楽シリンダー制作は、録音内容だけでなく、録音媒体そのものの技術的制約とも結びついていました。初期のフォノグラフでは、錫箔に代わる記録媒体の探索が続けられ、エジソンは蝋管(ワックス・シリンダー)を用いることで、表面を削って再利用できる記録媒体を試みました。一方、ベルとテインターの系統では、厚紙の芯に蜜蝋やパラフィンを塗ったシリンダーも用いられており、同時期の録音技術は、記録方式だけでなく素材面でも複数の試行が並行していました。

エジソン側でも、薄い真鍮製の芯、硬質ゴム、パラフィン表面を持つガラス製シリンダー、白色ワックス・シリンダー、褐色ワックス・シリンダーなどが試されていました。1889年の音楽シリンダーは、のちの標準化された市販レコードとは異なり、録音、複製、保存、再生耐久性のすべてがまだ実験段階にありました。7月の台帳に見られるシリンダー不足や稼働機械数の注記は、音楽録音が単に演奏者と曲目の問題ではなく、素材供給と媒体技術の制約を受けながら進められていたことを示しています。

エジソン・トーキング・ドールの商品化準備

1889年7月には、エジソン・トーキング・ドールの商品化に向けた販売面の準備が進んでいました。ニューヨーク市ブロードウェイ443番地・445番地のストローベル&ウィルケン(Strobel & Wilken)では、エジソン製のトーキング・ドールがまもなく供給されると見込まれていました。この時点ではまだ一般販売が始まっていたわけではなく、実際の販売開始は1890年4月7日とされています。

同じ1889年7月には、ニューヨーク市の人形取引関係者が、エジソン・マシン・ワークス(Edison Machine Works)のジェームズ・F・ケリー(James F. Kelly, 生没年不明)に対し、1体3ドルであれば非常に多数を販売できるが、5ドルでは比較的少数にとどまり、3ドルを超える価格では販売が鈍くなると伝えていました。この記録は、トーキング・ドールの商品化が、音声再生技術の完成だけでなく、玩具としての価格設定、販売店、購買層の見極めにも左右されていたことを示しています。1889年7月の段階では、録音と機構の実験に加えて、商品として市場に出すための具体的な準備が進み始めていたといえます。

トーキング・ドール用録音の準備と子どもの声の訓練

エジソン・トーキング・ドールの商品化では、機械や販売網だけでなく、実際に人形から聞こえる声をどのように用意するかも課題でした。1889年8月8日、チャールズ・バチェラー(Charles Batchelor, 生没年不明)は、エジソン・フォノグラフ・トイ・マニュファクチャリング社(Edison Phonograph Toy Manufacturing Company)に対し、フォノグラフ玩具用のシリンダーへ吹き込む子どもの声の訓練を始めていることを伝え、必要な短い詩や童謡の一覧を求めました。録音では、何を話すかだけでなく、どのように発声するかが重要だったため、事前に声を十分に練習させる必要がありました。

実際のエジソン・トーキング・ドール用録音は、主に1890年2月–5月にエジソン・フォノグラフ・ワークスで雇われた少女たちによって制作されました。1889年夏の段階では、録音済みシリンダーを量産する前に、子どもの声、発音、短い詩の選定、録音に適した発声を整える準備が進められていたことがわかります。この動きは、トーキング・ドールが単なる機械玩具ではなく、声を商品化するための録音制作体制を必要としていたことを示しています。

アメリカン・グラフォフォン社とヴォルタ研究所の技術系譜

1889年7月のフォノグラフ事業を理解するには、エジソン系のフォノグラフだけでなく、ベルとテインターの系統から生まれたグラフォフォンもあわせて見る必要があります。アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell, 1847–1922)、チチェスター・ベル(Chichester Bell, 1848–1924)、チャールズ・サムナー・テインター(Charles Sumner Tainter, 1854–1940)は、ヴォルタ研究所で錫箔式フォノグラフの改良に取り組み、蝋を用いた記録面や、交換可能なシリンダーを使う録音再生方式を発展させました。

この技術はヴォルタ・グラフォフォン社(Volta Graphophone Company)を経て、アメリカン・グラフォフォン社へと引き継がれました。1888年以降、ノース・アメリカン・フォノグラフ社の事業では、エジソン式フォノグラフとベル=テインター系のグラフォフォンが同じ商業制度のなかで扱われるようになりました。そのため、1889年7月の地域会社による公開実演や巡回紹介は、単にエジソン研究所の音楽シリンダーを広める動きではなく、フォノグラフとグラフォフォンという複数の技術系譜が、事務用途、展示、娯楽再生の市場で並行して試されていた段階として位置づけられます。

ベルリナーの硬質ゴム盤と円盤式グラモフォン

1889年7月までに、エミール・ベルリナーは、円盤式グラモフォンの複製盤素材として、セルロイドではなく硬質加硫ゴムを用いる段階に進んでいました。ベルリナーの方式は、エジソン系の音楽シリンダーとは異なり、円盤上に横振動の溝を作り、その原盤から複製を作ることを前提としたものでした。1888年5月16日のフランクリン研究所(Franklin Institute)での公開講演では、円盤式の録音・再生方式が示され、その後、セルロイド複製盤の摩耗が問題となったため、1889年7月までに硬質加硫ゴム盤へ移行していました。

この動きは、1889年7月のエジソン研究所における音楽シリンダー制作とは別系統ですが、同じ時期に録音媒体の形状と複製方法をめぐる別の解答が進んでいたことを示しています。ベルリナーは1889年8月にヨーロッパへ渡り、同年11月にベルリンでグラモフォンを実演しました。最初期の商業的展開はアメリカ合衆国ではなくヨーロッパ側で進み、のちの円盤レコード産業につながる基盤となりました。1889年7月は、蝋管を中心とするシリンダー録音と、硬質加硫ゴム盤を用いる円盤式録音が、異なる方向から録音産業化の可能性を探っていた時期として位置づけられます。

コロンビア・フォノグラフ社の初期音楽録音への転換

コロンビア・フォノグラフ社は、1889年1月に設立されたノース・アメリカン・フォノグラフ社の地域会社で、デラウェア州、メリーランド州、コロンビア特別区を営業区域としていました。同社は当初、フォノグラフとグラフォフォンを事務用の口述記録機として普及させようとしていましたが、機械の信頼性や市場の抵抗に直面し、次第に録音済みの音楽シリンダーを展示業者やコイン投入式フォノグラフの運用者へ供給する方向へ進みました。

この転換を主導した人物の一人が、同社社長のエドワード・D・イーストン(Edward D. Easton, 生没年不明)でした。フランク・ドリアン(Frank Dorian, 生没年不明)は後年、コロンビア・フォノグラフ社が1889年前半に独自録音を始めたと述べていますが、確認できる最初期の公刊資料は1889年11月15日付の広告パンフレットです。そのため、1889年7月時点で同社の個別録音タイトルや録音本数を確定することはできません。ただし、エジソン研究所で音楽シリンダー制作が続いていた同じ時期に、コロンビア・フォノグラフ社もまた、口述記録中心の事業から娯楽録音の販売・展示へ向かう初期段階にあったことは確認できます。

パリ万国博覧会とフォノグラフ展示

1889年7月、パリ万国博覧会ではフォノグラフが電信・電話関係の展示の一部として紹介されていました。フォノグラフは、音声を記録して再生する近代技術として来場者に示され、同時代の通信技術や電気技術と並ぶ展示対象になっていました。会期中の展示をエジソン研究所で得られていた水準に近づけるため、ヴァンゲマンは6月にヨーロッパへ派遣され、パリの展示運営に関わりました。

このため、1889年7月のエジソン研究所の録音活動は、国内向けの音楽シリンダー制作だけでなく、国際博覧会でフォノグラフの性能を示す動きとも同時進行していました。ヴァンゲマンが不在となった後も、研究所では音楽シリンダー制作が継続され、台帳には多くの録音項目が残されています。パリ万国博覧会でのフォノグラフ展示は、録音再生技術が研究所内の実験や地域会社の公開実演を越えて、国際的な技術展示の場で注目されていたことを示しています。

References