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1891年1月の録音・音声記録

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1891年1月の録音・音声記録

1891年1月、チリではホセ・マヌエル・バルマセダ・フェルナンデス(José Manuel Balmaceda Fernández, 1840–1891)大統領とチリ国民議会(National Congress of Chile)の対立が武力衝突へ発展し、同年の内戦が始まりました。ドイツでは、ルドルフ・フィルヒョウ(Rudolf Virchow, 1821–1902)がロベルト・コッホ(Robert Koch, 1843–1910)の結核治療法を受けた患者の剖検結果をベルリン医学会(Berliner Medizinische Gesellschaft)で報告し、コッホも結核治療薬ツベルクリンの性質と製法を公表しました。ハワイ王国では20日にカラカウア(Kalākaua, 1836–1891)がサンフランシスコで死去し、遺体がホノルルへ戻った29日にリリウオカラニ(Liliʻuokalani, 1838–1917)が憲法遵守の宣誓を行い、女王に即位しました。31日には、ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen, 1828–1906)の戯曲『ヘッダ・ガーブレル(Hedda Gabler)』がミュンヘンの王立レジデンツ劇場(Königliches Residenz-Theater)で世界初演されました。

録音史では、前年12月にノース・アメリカン・フォノグラフ社(North American Phonograph Company)傘下の地方会社による独自録音が認められ、音楽シリンダーの制作主体が各地へ広がり始めていました。1891年1月には専門誌『フォノグラム(The Phonogram)』が創刊され、ジャージーシティーの「music factory」における音楽シリンダーの生産や、コイン投入式フォノグラフ、地方会社を支える技術者の役割などが紹介されています。ニュージーランドではE・ダグラス・アーチボルド(E. Douglas Archibald, 生没年不明)がクライストチャーチからネーピアへ巡回し、公開実演と現地録音を行いました。サンフランシスコでは、カラカウアの音声もフォノグラフに記録されています。エジソン研究所(Edison Laboratory)の録音帳簿には1月の明確な録音セッションは記録されておらず、コロンビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company)についても、現存資料から個々の録音を1891年1月の制作と特定することはできません。

この月の確認されている録音:6件

1891年1月の録音に関する情報のまとめ

1891年1月のアメリカにおける商業録音では、個々の録音日まで特定できる記録は現存資料から確認されていません。エジソン研究所の『The First Book of Phonograph Records』では、1890年12月24日にウィリアム・トゥーソン(William Tuson, 1863–1943)のクラリネットとエドワード・イスラー(Edward Issler, 生没年不明)のピアノによる録音が記録されています。その次に日付が記された録音は1891年2月10日のトゥーソンとイスラーによるもので、48本のクラリネット録音が記録されています。この2件の間に、1891年1月の日付を持つ録音記録はありません。

コロンビア・フォノグラフ社の現存カタログ一覧では、1890年12月22日付カタログの次に、ティム・ブルックス(Tim Brooks)が1891年6月1日付としたカタログが挙げられています。ただし、このカタログには内表紙に1892年3月付の書簡があることが注記されており、個々の収録タイトルを1891年1月の録音と特定することはできません。

ニュージーランドでは、新聞記事から1月中に行われた録音とその再生の記録を確認できます。録音日まで特定できるものがある一方、1月中の録音であることは確認できても、正確な日付までは判明していない記録も残されています。

13日(1件)

1891年1月13日、ニュージーランドのクライストチャーチにあるオッドフェローズ・ホール(Oddfellows’ Hall)で、E・ダグラス・アーチボルドによるエジソン・フォノグラフの公開実演が行われました。翌14日付『リトルトン・タイムズ(Lyttelton Times)』の記事によると、音楽録音の再生に続いてアーチボルド自身がフォノグラフに歌と声を吹き込み、その内容が直後に再生されました。記事には歌唱した曲名や発話内容、録音シリンダーの本数は記されていません。

TitleArtistMatrixCatalog No.
N/AProfessor Archibald

【1891年1月13日の出来事】
・マオリの言語・伝承研究に携わったジョン・ホワイトが死去
ジョン・ホワイト(John White, 1826–1891)は、マオリ語の通訳、公務員、著述家として活動し、マオリの歴史や伝承の収集・記録に取り組みました。1887年から1890年にかけて『The Ancient History of the Māori, His Mythology and Traditions』全6巻を刊行しています。1891年1月13日、ファカターネ(Whakatāne)で開かれる先住民土地裁判所(Native Land Court)の審理へ向かう途中に死去しました。

16日(1件)

1891年1月16日、クライストチャーチで、ウィリアム・ヒリアー・オンスロー(William Hillier Onslow, 1853–1911)がフォノグラフに、第7代ジャージー伯爵ヴィクター・アルバート・ジョージ・チャイルド=ヴィリアーズ(Victor Albert George Child-Villiers, 7th Earl of Jersey, 1845–1915)への祝賀メッセージを吹き込みました。翌17日付『リトルトン・タイムズ』によると、この日午後にはオンスロー伯爵のための特別実演が行われ、第9代キントア伯爵アルジャーノン・ホーキンズ・トマンド・キース=ファルコナー(Algernon Hawkins Thomond Keith-Falconer, 9th Earl of Kintore, 1852–1930)からの録音メッセージが再生された後、オンスロー伯爵がジャージー伯爵への祝賀メッセージを録音しました。メッセージの全文は記事には掲載されていません。

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N/ALord Onslow

【1891年1月16日の出来事】
・フランスの作曲家レオ・ドリーブが死去
フランスの作曲家レオ・ドリーブ(Léo Delibes, 1836–1891)が、1891年1月16日にパリで死去しました。ドリーブは、バレエ『コッペリア(Coppélia)』『シルヴィア(Sylvia)』や、オペラ『ラクメ(Lakmé)』などで知られています。

17日(2件)

1891年1月17日、クライストチャーチで行われたフォノグラフの公開実演で、チャーチル・ジュリアス(Churchill Julius, 1847–1938)とフェルディナント・ヤーコプ・ハインリヒ・フォン・ミュラー(Ferdinand Jacob Heinrich von Mueller, 1825–1896)の発言がフォノグラフに録音されました。19日付『リトルトン・タイムズ』によると、この日は2回の実演が行われ、ジュリアスとフォン・ミュラーがそれぞれフォノグラフに話し、その内容が再生されました。記事には両者の発言内容や録音の題名は記されていません。

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N/ABishop Julius
N/ABaron von Mueller

【1891年1月17日の出来事】
・アメリカの歴史家ジョージ・バンクロフトが死去
アメリカの歴史家・政治家・外交官ジョージ・バンクロフト(George Bancroft, 1800–1891)が、1891年1月17日にワシントンD.C.で死去しました。バンクロフトはアメリカ合衆国海軍長官を務め、在任中にはアナポリスにアメリカ海軍兵学校(United States Naval Academy)を設立するうえで中心的な役割を果たしました。

26日(2件)

1891年1月26日、ネーピアのシアター・ロイヤル(Theatre Royal)で行われたフォノグラフの公開実演で、アーチボルドが「Mary had a little lamb」を吹き込み、その録音が直後に再生されました。翌27日付『ホークス・ベイ・ヘラルド(Hawke’s Bay Herald)』によると、同じ実演ではMiss Largeが「Where the bee sucks」を歌い、その声もフォノグラフに録音され、再生されました。

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Mary had a little lambProfessor Archibald
Where the bee sucksMiss Large

【1891年1月26日の出来事】
・4ストローク機関の開発で知られるニコラウス・アウグスト・オットーが死去
ドイツの技術者ニコラウス・アウグスト・オットー(Nicolaus August Otto, 1832–1891)が、1891年1月26日にケルンで死去しました。オットーは1876年、圧縮したガスと空気の混合気を用いる4ストローク機関を完成させ、その後の内燃機関の発展に大きな影響を与えました。

録音日不詳

1891年1月、サンフランシスコで療養していたカラカウアは、病室に置かれたエジソン・フォノグラフにハワイ語で約10分間の音声を吹き込みました。2月10日付『ハワイアン・ガゼット(Hawaiian Gazette)』に転載された『サンフランシスコ・クロニクル(San Francisco Chronicle)』の記事に録音の様子が記されていますが、正確な録音日は明らかになっていません。

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N/AKing Kalakaua

クライストチャーチでは、1月9日付『プレス(The Press)』が、翌10日に予定されていた非公開実演でクライストチャーチ・オルフェウス・カルテットが「How sweet, how fresh」をフォノグラフに歌い込む予定であると報じました。1月10日にこの録音が実際に行われたことは確認できません。その後のクライストチャーチでの実演では、同カルテットによる録音が再生されたほか、「Oh Sactissima」「The Drinking Song」「Sailors’ Song」「Beware」などの声楽録音も紹介されていますが、これらの曲を同カルテットの録音と特定することや、それぞれの録音日を確定することはできません。

1月21日にクライストチャーチで行われた実演では、クライストチャーチの救世軍楽隊による行進曲の録音が再生されました。また、26日のネーピアでの実演では、クライストチャーチで録音された救世軍楽隊の音声が再生され、演奏や歌声のほか、「Amen」「Hallelujah」といった声も収められていたことが伝えられています。これらの録音が制作された正確な日付は明らかになっていません。

1891年1月の録音に関する情報のまとめ

1891年1月には、個々の録音記録に加えて、地方会社による独自録音の制度化、音楽シリンダーの生産、専門誌の創刊、コイン投入式フォノグラフの利用、地方会社を支える技術者の役割など、録音産業に関わる動きがみられました。ニュージーランドではアーチボルドの巡回実演に伴って現地録音が行われ、サンフランシスコではカラカウアの音声がフォノグラフに記録されました。1891年1月には、録音そのものだけでなく、録音の制作・流通・利用をめぐる動きも各地で確認できます。

エジソンの方針転換と地方会社による独自録音の拡大

1890年12月、トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)は、ノース・アメリカン・フォノグラフ社傘下の地方会社が独自の録音を制作・販売することを認めました。

地方会社による録音にはエジソン製のブランク・シリンダーを使用し、複製をエジソン・フォノグラフ・ワークス(Edison Phonograph Works)で行うことが条件とされていました。1891年1月はこの方針変更の翌月にあたりますが、現存資料から各地方会社が同月に制作した個々の録音を日付やタイトルまで特定することはできません。

『The Phonogram』創刊

1891年1月、フォノグラフ業界誌『フォノグラム』第1巻第1号がニューヨークで刊行されました。同誌は、フォノグラフへの関心を高め、その用途を広く紹介するとともに、地方フォノグラフ会社に関する情報を伝えることを目的としていました。1891年6月に開かれた地方フォノグラフ会社大会でも、『フォノグラム』は各社の「official organ」とされ、フォノグラフへの関心の喚起、用途についての教育、一般への情報提供が創刊の目的として説明されています。

創刊号には、ノース・アメリカン・フォノグラフ社傘下の地方会社を紹介する「Local Companies」のほか、音楽シリンダーの制作、フォノグラフの業務利用、機械の保守、コイン投入式フォノグラフをめぐる問題などの記事が掲載されました。

ジャージーシティーの「music factory」と音楽シリンダーの生産

1891年1月の『フォノグラム』創刊号に掲載された「How It Is Done」は、ノース・アメリカン・フォノグラフ社がジャージーシティーで大規模な「music factory」を運営し、毎月数千本の音楽シリンダーを制作していたことを伝えています。録音には、同じ演奏を複数のシリンダーへ同時に記録する方法が用いられていました。

録音の前には曲名が吹き込まれ、シリンダーに余裕がある場合には演奏後の拍手や歓声も収録されました。完成したシリンダーは販売前に再生して状態が確認され、欠陥のあるものは除外されていました。

コロンビア・フォノグラフ社の独自録音と用途の拡大

コロンビア・フォノグラフ社は、ノース・アメリカン・フォノグラフ社が地方会社による独自録音を正式に認める以前から、自社で音楽シリンダーを制作していました。現存資料では、1889年11月までに独自の音楽録音を制作・販売していたことが確認できます。1890年2月には、アメリカ海兵隊軍楽隊(United States Marine Band)のフルート、ピッコロ奏者ヘンリー・イェーガー(Henry Jaeger, 生没年不明)によるソロ録音を継続的に供給する契約を告知し、同年11月にはアメリカ海兵隊軍楽隊の録音を供給できるようになったことを発表しました。

同社の初期事業は、ワシントンD.C.を中心とする業務用フォノグラフの貸与だけでなく、音楽シリンダーの制作・販売にも及んでいました。1891年1月の時点で独自録音事業はすでに始まっていましたが、現存するカタログは1890年12月22日付の資料の次が1891年6月1日付とされる資料となっており、掲載タイトルのうちどれが1891年1月に録音されたものかを特定することはできません。なお、1891年6月1日付とされるカタログには、内表紙に1892年3月付の書簡があることが注記されています。

コイン投入式フォノグラフと娯楽用途をめぐる業界論争

1891年1月の『フォノグラム』創刊号には、「An Important Suggestion」と題する論説が掲載されました。論説では、フォノグラフを娯楽目的で公開することで、一般の人々がフォノグラフを実務にも利用できる機械ではなく、単なる玩具として受け取る可能性があると指摘しています。また、地方会社が「coin-in-the-slot」による収益に依存し、口述などの業務用途を広げる機会を逃すことへの懸念も示されました。

翌1892年に開かれた全米フォノグラフ協会(National Phonograph Association)の第3回年次大会では、ノース・アメリカン・フォノグラフ社副社長トーマス・R・ロンバード(Thomas R. Lombard, 生没年不明)が、この論説を自身が執筆したことを明らかにしました。ロンバードは、コイン投入式フォノグラフそのものを廃止する意図はなく、地方会社の経営者がその収益に注意を集中させることで、業務用途を見失うことを問題としていたと説明しています。また、この論説に一部の地方会社が強く反発し、『フォノグラム』への支持を撤回したことも述べています。

地方フォノグラフ会社の技術者と保守体制

1891年1月の『フォノグラム』は、地方フォノグラフ会社で「company expert」の職に就く者について、ノース・アメリカン・フォノグラフ社から推薦を受けるためには、「competent authority」の署名入り証明書によって資格を示す必要があると伝えています。同誌は、この措置について、それまでこの重要な職務を担っていた者が、必ずしも十分な水準に達していたわけではなかったと説明しています。

地方フォノグラフ会社では、各地に配置されたフォノグラフの取り扱いや保守を担う技術者が必要とされていました。1891年1月に示された資格証明の要件は、こうした技術職に就く者の能力を確認するための仕組みとして導入されたものでした。

H・リー・セラーズによるチューレーン大学でのフォノグラフ実演

1891年1月26日、H・リー・セラーズ(H. Lee Sellers, 生没年不明)は、ニューオーリンズのチューレーン大学(Tulane University of Louisiana)で、限られた聴衆を前にエジソン・フォノグラフの実演を行いました。この実演で録音が行われたことを示す記録は残されていません。

セラーズは当時、ルイジアナでフォノグラフ事業の立ち上げに関わっていました。ルイジアナ・フォノグラフ社(Louisiana Phonograph Company, Ltd.)が法人化されたのは同年3月7日で、1月26日の実演は同社設立前に行われたものでした。

E・ダグラス・アーチボルドのニュージーランド巡回と現地録音

1891年1月、アーチボルドはニュージーランドでエジソン・フォノグラフの実演を行いました。クライストチャーチでは、13日の実演で録音方法を示すために自身の歌声をフォノグラフへ吹き込み、直後に再生しています。17日の実演では、ジュリアスとフォン・ミュラーがそれぞれフォノグラフに話し、その音声が再生されました。

クライストチャーチでの実演は21日まで続き、アーチボルドは翌22日にマラロア号(Mararoa)でネーピアへ向かいました。クライストチャーチでは、オルフェウス・カルテットによる録音や救世軍楽隊の録音も再生されましたが、それぞれの正確な録音日は明らかになっていません。

ネーピアでは26日にシアター・ロイヤルで実演が行われ、アーチボルドが「Mary had a little lamb」を、Miss Largeが「Where the bee sucks」をフォノグラフへ吹き込み、いずれもその場で再生されました。同じ実演では、クライストチャーチで録音された救世軍楽隊の演奏や歌声を収めたシリンダーも再生されました。

カラカウアの音声記録

1891年1月、サンフランシスコで療養していたカラカウアの音声が、病室に置かれたエジソン・フォノグラフに記録されました。2月10日付『ハワイアン・ガゼット』に転載された『サンフランシスコ・クロニクル』の記事によると、フォノグラフが病室へ運び込まれた際、侍従のジョージ・W・マクファーレン(George W. Macfarlane, 1849–1921)がその用途を説明し、カラカウアに音声を残すよう勧めました。カラカウアはベッドの上で身体を起こし、ハワイ語でフォノグラフに話しました。記事では、ゆっくりと約10分間話したと伝えられています。

カラカウアは後日続きを録音する意向を示しましたが、追加の録音は行われませんでした。カラカウアの死後、フォノグラフのオペレーターがワックス製の録音媒体を機械から取り外し、その後ホノルルへ運ばれました。録音が行われた正確な日付は明らかになっていません。

References