1891年10月に録音された音楽
1891年10月は、近代社会の基盤が教育・科学・都市文化・市民活動へ一気に広がる一方、自然災害がその脆さも突きつけた月でした。アメリカ合衆国カリフォルニア州では、リーランド・スタンフォード(Leland Stanford, 1824–1893)とジェーン・スタンフォード(Jane Stanford, 1828–1905)が設立したリーランド・スタンフォード・ジュニア大学(Leland Stanford Junior University)が1891年10月1日に開学し、学術と技術教育の拠点が誕生します。同月10日には、イングランドのマンチェスターで英国王立救命艇協会(Royal National Lifeboat Institution)の街頭募金「ライフボート・サタデー(Lifeboat Saturday)」が実施され、都市の大衆が救難活動を支える新しい慈善の形が可視化されました。都市の余暇文化では、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデン(Madison Square Garden)で1891年10月19日に6日間自転車レースが始まり、長時間耐久競技が「見世物」として成立していく端緒となります。いっぽう日本では1891年10月28日に濃尾地震が発生し、東京帝国大学の地質学者である小藤文次郎(1856–1935)が断層の調査を通じて地震理解の更新に関わるなど、災害と科学が同時に前へ進む局面が現れました。
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1891年10月の録音に関する情報のまとめ
1891年10月の録音関連情報として、当月の業界紙フォノグラム(The Phonogram)に、コロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)の録音現場を伝える写真記事が掲載されたことが確認できます。記事では、同社がアメリカ合衆国海兵隊軍楽隊(United States Marine Band)をはじめとする演奏家を、社内の録音室で蝋管(ワックス・シリンダー)へ録音していた状況が示され、録音が「特別な実験」から「日常的な制作工程」へ移っていく段階をうかがわせます(当該写真は同社音楽部門の責任者として言及されるプロフェッサー・ビアンキ(Professor Bianchi, 生没年不明)に関連づけて紹介されています)。
コロンビアの録音室写真
フォノグラム(The Phonogram)の1891年10月号には、コロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)の「録音室」で撮影されたとされる写真が掲載され、プロフェッサー・ビアンキ(Professor Bianchi, 生没年不明)の「主要な録音対象」としてアメリカ合衆国海兵隊軍楽隊(United States Marine Band)が取り上げられています。あわせて、録音時に複数の蓄音機を並行稼働させていた可能性や、録音量産の労力(1日に生産できる複製数が限られること)にも触れられており、1891年時点の蝋管制作がまだ手作業的で、同時に「量」を求められ始めていたことが読み取れます。
1891年のカタログ拡大と録音活動
1891年のコロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)について、同年のカタログ類が前年より大きく拡大していること、そして録音活動と広報が活発化していたことが、同社史研究の整理として示されています。具体的には、1891年6月時点のカタログが10ページ、1891年11月時点のカタログが14ページとされ、アメリカ合衆国海兵隊軍楽隊(United States Marine Band)やジョン・ヨーク・アトリー(John Yorke AtLee, 生没年不明)のような演目供給源を軸に、レパートリーの拡充が進んでいた状況が説明されています。
フォノグラム誌が示す「録音がビジネスの中心」への移行
フォノグラム(The Phonogram)掲載記事群を材料にした整理として、コロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)が1891年の時点で録音(音楽レコード)販売へ深く傾斜し、「他社がまとめて売る量を自社で売っている」といった主張が見られることが紹介されています。これは、蓄音機そのものの販売・賃貸だけでなく、録音物(蝋管)というコンテンツが収益の柱になっていく過程を示す同時代的な手がかりです。
