1900年に録音された音楽
1900年は、世紀の切り替わりとともに、戦争・帝国主義・都市化・科学技術・大衆文化が同時にせり上がった年でした。音が「その場の演奏」から「複製して流通するもの」へ変わるための社会条件が、世界規模で整っていく過程が見えます。電気・交通・通信のネットワークが拡張し、都市の人口集中と余暇産業の肥大化が、娯楽としての音楽と、記録媒体としての録音の需要を押し上げました。
その象徴が1900年パリ万国博覧会(Exposition Universelle, 1900年4月14日–11月12日)です。会期中には競技会としての「1900年パリ五輪(Games of the II Olympiad, 1900年5月14日–10月28日)」も同じ都市で展開され、博覧会・スポーツ・興行が交差する大規模な都市イベントになりました。さらにパリでは、来訪者の移動を支える都市交通として地下鉄が整備され、1号線(Porte Maillot–Porte de Vincennes)が1900年7月19日に開業しています。巨大な人波と都市インフラの同時進行は、「観客の集まる場所」を増やし、音楽・芝居・見世物の消費をより日常化させました。
同博覧会でデンマークの発明者ヴァルデマー・ポールセン(Valdemar Poulsen, 1869–1942)が磁気録音機テレグラフォン(telegraphone)を実演し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I, 1830–1916)の声を記録した例は、現存する最古級の磁気録音として知られます。機械式録音(シリンダー/ディスク)が中心だった時代に、音の保存と再生が「別の原理」でも成立し得ることが示され、録音が曲だけでなく「声」や「出来事」を固定するメディアへ広がる可能性が可視化されました。
一方で国際政治は緊張を増します。中国では義和団運動(ボクサー事件)が激化し、北京の各国公使館区域が1900年6月20日から8月14日まで包囲されました。多国籍軍の救援によって包囲は解かれますが、列強の介入は清朝の権威を大きく損ない、以後の中国近代史に長い影を落とします。同じく帝国主義の衝突として、南アフリカでは南アフリカ戦争(South African War/第二次ボーア戦争、1899–1902)が続き、1900年には英軍がブロームフォンテーン占領(3月13日)やプレトリア占領(6月5日)など主要都市を押さえます。戦争は兵站と報道を拡大させ、歌や流行、楽団の移動といった文化の伝播回路もまた、同時に太くなっていきました。
大衆社会の制度化も進みます。英国では1900年2月に労働代表委員会(Labour Representation Committee)が結成され、労働者の政治代表を増やす枠組みが作られました。米国では1900年11月6日の大統領選挙でウィリアム・マッキンリー(William McKinley, 1843–1901)が再選し、産業化と対外政策をめぐる議論が大衆政治の中心に据えられます。人口と情報が巨大化するほど、新聞・広告・興行は「同時代の気分」を商品化し、音楽のヒットと録音物の売れ行きは、その波に組み込まれていきます。
自然災害は近代社会の脆さも突きました。1900年9月8日のガルベストン・ハリケーンは、米国史上最悪級の自然災害として位置づけられ、死者は推計で6,000–12,000人(しばしば約8,000人)とされています。災害が「現地の惨事」にとどまらず、報道を介して共有され、記録され、記憶される対象になることも、この時代の特徴でした。
科学と思想の側では、20世紀を決定づける芽が出ます。マックス・プランク(Max Planck, 1858–1947)は1900年12月14日のドイツ物理学会で黒体放射をめぐる理論を提示し、量子仮説の出発点とされる発想を導入しました。また、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856–1939)の『夢判断(Die Traumdeutung)』は1899年に刊行されつつ「1900年」の年記で流通し、人間の内面を新しい語彙で説明する潮流を強めます。
1900年は、帝国の衝突と大衆政治、災害と報道、そして量子や無意識のような新しい世界像が同居した年でした。パリで示された磁気録音の実演は、録音が技術の更新と市場の拡大によって姿を変え続けることを予告し、20世紀の音楽文化が「複製と流通」を軸に巨大化していく前提を、歴史の表面に浮かび上がらせます。
