1906年に録音された音楽
1906年は、列強外交が国際会議という形式で調停される一方、災害と産業事故が近代都市と工業社会の脆さを突き付け、さらに国家による規制・標準化が生活の隅々へ入り込んでいった年です。第一次モロッコ危機(First Moroccan Crisis)を受けてアルヘシラス会議(Algeciras Conference, 1906年1月16日–4月7日)が開催され、アルヘシラス法(Act of Algeciras, 1906年4月7日署名、6月18日封印)としてモロッコ統治への国際的関与が制度化されました。イギリスでは1906年イギリス総選挙(1906 United Kingdom general election, 1月12日–2月8日)で自由党が大勝し、ヘンリー・キャンベル=バナマン(Henry Campbell-Bannerman, 1836–1908)内閣の下で改革政治が前進します。ロシア帝国では第一国家ドゥーマ(First State Duma of the Russian Empire)が4月27日に開会し、同年7月8日までという短期間ながら立法と専制の緊張を可視化しました。フランスではドレフュス事件(Dreyfus affair)の帰結として、アルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus, 1859–1935)の有罪判決が破毀院(Cour de cassation)により1906年7月12日に破棄され、長期の政治社会的対立が法的には終結へ向かいます。
同時に、破局的な出来事が社会の「安全」を再設計させました。フランス北部ではクーリエール炭鉱事故(Courrières mine disaster, 1906年3月10日)で1,099人が死亡し、産業災害が労働・救助・企業責任をめぐる議論を強く喚起します。4月18日5時12分頃にはサンフランシスコ地震(1906 San Francisco earthquake)が発生し、大火災を伴って市域の大半が焼失し、死者は3,000人超、家を失った人は約200,000人規模とされました。イタリアではヴェスヴィオ火山噴火(1906 eruption of Mount Vesuvius, 4月)が甚大な被害を出し、チリではバルパライソ地震(1906 Valparaíso earthquake, 8月16日)が港湾都市を破壊し、死者数は資料により約3,000人規模から3,800人まで幅があります。植民地社会でも緊張が高まり、ナタール植民地ではバンバタ蜂起(Bambatha Rebellion, 1906年)が課税政策を背景に勃発し、多数の死者を伴って鎮圧されました。
こうした危機は、国家の介入拡大と国際標準化を後押しします。アメリカではアプトン・シンクレア(Upton Sinclair, 1878–1968)の小説『ジャングル』(The Jungle, 1906年)が食肉産業の実態を告発し、純正食品薬品法(Pure Food and Drug Act)と連邦食肉検査法(Federal Meat Inspection Act)がともに1906年6月30日に成立して、食品・医薬品の表示や衛生管理が連邦法の枠に置かれました。自然・遺跡保護でも古物法(Antiquities Act, 1906年6月8日施行)が制定され、大統領による国定記念物指定という強い権限が制度化されます。国際通信の面では国際無線電信条約(International Radiotelegraph Convention (1906), 11月3日署名、1908年7月1日発効)が海上無線の規格を整え、遭難信号としてSOSが国際標準に位置付けられました。
無線の表現力自体も拡張し、レジナルド・オーブリー・フェッセンデン(Reginald Aubrey Fessenden, 1866–1932)は1906年12月24日に音声と音楽を送る放送を実演したとされます。家庭内の音楽環境でも、ビクター社のビクトローラ(Victrola, 1906年商標展開)は内部ホーンを家具に収める設計で「機械」を室内文化へ溶け込ませる方向を強めました。軍事技術では戦艦HMSドレッドノート(HMS Dreadnought, 1906年2月10日進水、12月2日就役)が登場し、海軍力の基準を塗り替えます。科学の側ではノーベル物理学賞がジョセフ・ジョン・トムソン(Joseph John Thomson, 1856–1940)に授与され、気体中の電気伝導の研究が評価されました。1906年は、外交・災害・規制・標準化・メディアの変化が同時に進み、20世紀の社会システムを形作る圧力が一段と強まった年として位置付けられます。
