1932年6月に録音された音楽

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1932年6月に録音された音楽

1932年6月は、世界恐慌の圧力が各国の政治と市場の両方を強く揺らした月でした。アメリカ合衆国ではハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover, 1874–1964)大統領が6月6日に1932年歳入法(Revenue Act of 1932)を成立させ、増税による財政再建を進めました。同国では第一次世界大戦退役軍人への早期支給を求めるライト=パットマン・ボーナス法案(Wright Patman Bonus Bill)が6月15日に下院を通過したものの、6月17日に上院で否決され、首都ワシントンの緊張が高まりました。ヨーロッパでは6月16日にローザンヌ会議(Lausanne Conference)が始まり、賠償問題の整理が主要議題となりました。ドイツではフランツ・フォン・パーペン(Franz von Papen, 1879–1969)内閣が6月15日に突撃隊(Sturmabteilung)の禁止を解除し、政局の不安定化が進みました。アジアでは6月24日に1932年シャム立憲革命(Siamese revolution of 1932)が起こり、絶対王政から立憲体制への転換が始まりました。さらに6月21日にはアメリア・イアハート(Amelia Earhart, 1897–1937)がホワイトハウスでナショナル ジオグラフィック協会(National Geographic Society)の金メダルを授与され、航空史の象徴的出来事となりました。

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1932年6月の録音に関する情報のまとめ

1932年6月の業界誌を再確認すると、当月の録音関連市場は、新譜投入そのものだけでなく、長時間盤の訴求、夏季需要への対応、ラジオ・フォノグラフ複合機の拡販、流通網の再整備、既販機器の修理体制維持に重心が置かれていました。『Radio Merchant』は、避暑地、海浜地、通勤結節点の商店では人気歌手盤とダンス盤の需要がなお強いとみており、同時に1932年歳入法によってフォノグラフ機構やフォノグラフ用レコードにも製造者価格の5パーセント課税が及ぶことを告知しています。そのなかで、アールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)は6月17日売りの新譜と33 1/3回転長時間盤を前面に出し、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は78回転のまま収録時間を延ばした長時間盤と欧州原盤の再プレスを押し出し、ブランズウィック・レコード社(Brunswick Record Corporation)は人気歌手・人気楽団盤を厚く供給し、ブランズウィック・ラジオ社(Brunswick Radio Corporation)は部品と修理網の再編で既販市場を支えていました。1932年6月の録音業界は、不況下でも録音物、販売方法、保守体制の三つを同時に立て直そうとしていたことが確認できます。

アールシーエー・ヴィクター

アールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)は、1932年6月の業界誌で、6月17日売りのヴィクター新譜を夏季商戦向けの中核商品として扱っていました。人気盤ではジョニー・ハンプ楽団(Johnny Hamp and His Orchestra)、バディ・ロジャース楽団(Buddy Rogers and His Orchestra)、レオ・ライスマン楽団(Leo Reisman and His Orchestra)、ジャック・デニー楽団(Jack Denny and His Orchestra)、フレッド・ウォーリング・アンド・ヒズ・ペンシルヴェイニアンズ(Fred Waring and His Pennsylvanians)などの録音が並び、保養地や行楽地の需要に向く月次新譜として紹介されています。クラシックでは、レオポルド・ストコフスキー(Leopold Stokowski, 1882–1977)指揮によるアルノルト・シェーンベルク(Arnold Schoenberg, 1874–1951)の『グレの歌』(Gurre-Lieder)が、新長時間盤方式による7枚組として売り出されました。誌面では、今後の国内向けマスターワーク集は標準盤と33 1/3回転長時間盤の両方で同時制作すると説明されており、同社が高級盤市場の再編を進めていたことがわかります。同月の機器記事では、同社のビ・アコースティック(Bi-Acoustic)機がシカゴ見本市以後に強い反応を得て、受注が供給を上回り、生産増強が試みられていると報じられました。さらに6月15日にはホテル・ペンシルベニア(Hotel Pennsylvania)で新ラインの説明会が開かれ、販売方針と広告方針がディーラー向けに示されています。レコード面でも機器面でも、1932年6月のアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)は、長時間盤と高級複合機を一体で売る月だったといえます。

コロムビア

コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は、1932年6月号で、過剰生産や押し込み販売を避ける正常化路線を強調し、ディーラーに過大在庫を抱えさせない方針を打ち出していました。同月のレコード記事では、通常の78回転のまま10インチで約5分、12インチで約7分を収める長時間盤が成功例として扱われ、ダンス音楽やメドレー盤の販売材料として押し出されています。さらに欧州提携先から優れたクラシック原盤が送られ、国内再プレスに回されていることも記されており、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)が新録音だけでなく国際原盤網を使って商品を厚くしていたことがわかります。同じ6月号では、同社輸出部門の調査として、西インド諸島、中南米、ブラジル、アルゼンチン、チリで需要回復の兆しが報告されました。また販路記事では、流通名義としてコロムビア・ラジオ・アンド・フォノグラフ社(Columbia Radio & Phonograph Co., Inc.)も確認でき、テキサス、ルイジアナ、ジョージア、フロリダ、オレゴン方面でラジオとレコード、あるいはフォノグラフとレコードの取扱地域が再編されていました。つまり1932年6月のコロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は、長時間盤、輸出市場、地域販売網の三方向で立て直しを進めていました。

ブランズウィック・レコード

ブランズウィック・レコード社(Brunswick Record Corporation)は、1932年6月の業界誌で、夏季の人気盤需要に応えるレーベルとして強く扱われていました。記事では、ダンス音楽のホットからスウィートまでを同社が広くカバーしているとされ、ガイ・ロンバード・アンド・ヒズ・ロイヤル・カナディアンズ(Guy Lombardo and His Royal Canadians)、レッド・ニコルズ・アンド・ヒズ・ペンニーズ(Red Nichols and His Pennies)、オジー・ネルソン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Ozzie Nelson and His Orchestra)に加え、ザ・ミルス・ブラザーズ(The Mills Brothers)、ザ・ボズウェル・シスターズ(The Boswell Sisters)、ビング・クロスビー(Bing Crosby, 1903–1977)、デューク・エリントン(Duke Ellington, 1899–1974)、キャブ・キャロウェイ(Cab Calloway, 1907–1994)、ジャック・ヒルトン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Jack Hylton and His Orchestra)などの盤が列挙されています。1932年6月のブランズウィック・レコード社(Brunswick Record Corporation)は、恐慌下でも知名度の高い歌手と楽団を集中投入することで店頭回転を維持しようとしていました。同年の別号では、ブランズウィック、ヴォカリオン、メロトーンを製造する会社として同社が明記されており、1932年夏の動きもその延長線上にあります。したがって、1932年6月のブランズウィック・レコード社(Brunswick Record Corporation)は、低迷期における需要維持を有名アーティスト盤の厚い供給で支えた会社として位置づけられます。

ブランズウィック・ラジオ

ブランズウィック・ラジオ社(Brunswick Radio Corporation)は、1932年6月号で、交換部品と修理サービスの窓口をユナイテッド・ラジオ・サービス社(United Radio Service Company)へ移したことを告知しました。従来はアイオワ州ダビュークまたはミシガン州マスキーゴンの工場が担っていた交換部品・サービス業務を、ニューヨークの同社が引き受ける形に改めたものです。対象はブランズウィック機器の部品と修理で、誌面ではブランズウィック系のサービス技術者が同社に属しているため、高水準のサービス継続が可能だと説明されました。1932年6月のブランズウィック・ラジオ社(Brunswick Radio Corporation)は、新型機の派手な拡販よりも、既販機器を市場に残し、ディーラーと修理網の信頼を保つ方向で動いていました。蓄音機とラジオの複合市場が縮小するなかで、保守網の維持そのものが重要な企業活動になっていたことを示す事例です。

M・スタイナート・アンド・サン

M・スタイナート・アンド・サン社(M. Steinert and Son)は、1932年6月号で、家庭録音サービスを販売に結びつけた主要販売会社として具体的に紹介されています。同社は店内に録音スペースを設け、ピアノと2スピード式ラジオ・フォノグラフ複合機、録音アタッチメントを使って来店客に録音体験を提供しました。価格は6インチ盤40セント、10インチ盤65セント、12インチ盤1ドルとされ、30日間で400件超の録音カードが記入され、平均230ドルの複合機11台が売れたと報じられています。録音体験そのものを商品化し、それを機器販売へつなげる手法がすでに成立していたことがわかります。さらに同社はボストンの展示会でも同様の企画を実施し、著名な舞台・放送関係者を登場させることで人だかりを作り、来場者に録音応募を促しました。翌週に盤を受け取りに来させる方式を採ったため、録音サービスがそのまま再来店施策になっています。1932年6月の主要販売会社の動きとしては、単なる陳列販売よりも、録音体験を核にした集客が進んでいた点で重要です。