1933年2月に録音された音楽

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1933年2月に録音された音楽

1933年2月は、世界恐慌の金融不安、国際秩序の動揺、報道環境の変化が同時進行した月です。アメリカ合衆国では2月14日にミシガン州で銀行休業が発令され、金融危機が全米へ連鎖する局面がいっそう深まりました。2月15日にはフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt, 1882–1945)がフロリダ州マイアミで狙撃されましたが無事で、近くにいたアントン・サーマク(Anton Cermak, 1873–1933)が致命傷を負いました。2月17日には週刊報道誌『ニューズ・ウィーク』(News-Week)が創刊されました。2月20日にはアメリカ合衆国議会(United States Congress)がアメリカ合衆国憲法修正第二十一条(Twenty-first Amendment to the United States Constitution)を可決し、禁酒法廃止への手続きが本格化しました。2月24日には国際連盟総会(League of Nations Assembly)が満洲事変に関する報告を採択し、日本代表団は退場して離脱の流れを決定的にしました。さらに2月27日のドイツ国会議事堂放火事件(Reichstag Fire)と、翌28日の国民と国家の保護のための大統領令(Decree of the Reich President for the Protection of People and State)によって、ドイツでは市民的自由の停止が急速に進みました。

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1933年2月の録音に関する情報のまとめ

1933年2月の同時代業界資料を通して見ると、この月の録音業界では、レコード販売、ラジオ番組、電気式トランスクリプション、ホテルや劇場での出演広告が密接に結び付いていました。とくにコロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は、番組制作と録音供給を一体化した体制を前面に出しており、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)とアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)も、放送出演やホテル契約とレコード販売を並記する形で露出を続けていました。さらに2月21日号の『Variety』誌が掲載した1月売上調査では、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)のコロムビア盤、アールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)のヴィクター盤がそれぞれ主要売れ筋として一覧化されており、1933年2月時点でも主要三系統の商業盤供給がなお活発だったことが確認できます。

コロムビア

1933年2月の資料で最も動きが明確なのは、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)です。2月7日付の『Variety』誌では、E・R・コーン(E. R. Conne, 生没年不明)が同社のラジオ番組、タレント、トランスクリプション各部門の責任者になったと報じられ、コロムビア放送会社(Columbia Broadcasting System)との結び付き強化が示されました。同じ記事では、電気式トランスクリプションが、全国一斉に時間を確保できない広告主のために番組をディスク化して地方へ送る仕組みとして説明され、ベン・セルヴィン(Ben Selvin, 1898–1980)が商業ディスクとラジオ用録音の音楽面を統括すると記されています。

2月14日付の『Variety』誌では、ハリー・ホーリック・アンド・ヒズ・オーケストラ(Harry Horlick and His Orchestra) が、E・R・コーン(E. R. Conne, 生没年不明)とアル・ボアズバーグ(Al Boasberg, 生没年不明)によって、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)のレコードとラジオの独占扱いに入ったと報じられています。2月21日付では、同社がそれまで慎重だったオフエア録音に踏み切り、放送済み番組をそのままディスク化して地方放送や広告主向け保存に回す方針を示しました。ここではルー・マインドリング(Lou Mindling, 生没年不明)がその部門を担うと記されています。

2月28日付の広告では、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)が「完全なラジオ番組サービス」を掲げ、ライヴ番組制作、アーティスト部門、電気式トランスクリプション、空中放送からディスクへの録音、脚本編集、番組稽古・演出、時間枠手配までを一括提供していました。録音スタジオはベン・セルヴィン(Ben Selvin, 1898–1980)の監督下、シカゴのスタジオはB・W・ヤング(B. W. Young, 生没年不明)の監督下、時間枠手配はバート・スクワイア(Burt Squire, 生没年不明)の監督下に置かれていました。また同月には、『四十二番街』(42nd Street)の宣伝列車でガイ・ロンバード・アンド・ヒズ・ロイヤル・カナディアンズ(Guy Lombardo and His Royal Canadians)とハル・ケンプ・アンド・ヒズ・オーケストラ(Hal Kemp and His Orchestra)のディスク再生が各停車地で使われ、そこにコロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)が協力したことも記されています。2月のコロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は、単なるレコード会社ではなく、放送番組制作と録音供給を統合した企業として前面に出ていました。

ブランズウィック

1933年2月のブランズウィック側資料では、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)が、放送・劇場・楽団興行と結び付いたかたちで販促されていたことが明確です。2月7日付の『Variety』誌では、ドン・レッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Don Redman and His Orchestra)を押し出した広告に、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)とコロムビア放送会社(Columbia Broadcasting System)が並記されていました。2月28日付では、アンソン・ウィークス・アンド・ヒズ・オーケストラ(Anson Weeks and His Orchestra, 1896–1969)の広告に、ナショナル放送会社(National Broadcasting Company)のネットワーク出演、『ラッキー・ストライク』(Lucky Strike)、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)が一体で掲げられていました。少なくとも当月の誌面上では、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)は、独立した社内制度変更を大きく打ち出すよりも、人気バンドの放送・出演実績とラベル名を結び付ける売り方を続けていたことがわかります。

同月の『Variety』誌が掲載した1月売上調査では、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)の六つの主要売れ筋が挙げられており、同レーベルの商業盤供給が実際に回っていたことも確認できます。記事では、ブランズウィック・レコード(Brunswick Records)の上位群として、ダンス・オーケストラ盤、ビング・クロスビー(Bing Crosby, 1903–1977)の歌唱盤、キャブ・キャロウェイ(Cab Calloway, 1907–1994)の盤などが複数並んでいました。1933年2月のブランズウィック・レコード(Brunswick Records)は、放送・ホテル・劇場との接続を保ちながら、売れ筋盤を継続供給していたと整理できます。

アールシーエー・ヴィクター

1933年2月のアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)については、ラベル名「Victor Records」の露出継続と、放送業界に接続する人材の動きが確認できます。2月7日、14日、21日の各号には、ジャック・デニー・アンド・ヒズ・オーケストラ(Jack Denny and His Orchestra)が、ウォルドルフ=アストリア・ホテル(Waldorf-Astoria Hotel)、『ラッキー・ストライク・ダンス・アワー』(Lucky Strike Dance Hour)、ホイットマン・チョコレーツ(Whitman Chocolates)とともに「Victor Records」を掲げて反復的に広告されていました。これは、アールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)が、ホテル出演、ラジオ番組、商業レコードを一体で訴求していたことを示しています。

2月14日付の『Variety』誌では、ジョー・ヒギンズ(Joe Higgins, 生没年不明)がナショナル放送会社(National Broadcasting Company)に再雇用され、その前歴としてアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)の Artists and Repertoire 部門にいたことが記されています。また2月7日付記事では、コロムビア側の新体制が、かつてナショナル放送会社(National Broadcasting Company)がヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)を取り込んで、のちのアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)になった構図になぞらえて説明されています。1933年2月の誌面上では、同社は新制度を大きく広告するというより、放送との結び付きと人材基盤の強さを保ちながら動いていたと見られます。

同じく2月21日号の1月売上調査では、ヴィクター盤が六つの主要売れ筋として並べられており、アールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)のカタログ供給が活発だったことも確認できます。そこでは、ダンス・オーケストラ盤、ポール・ホワイトマン(Paul Whiteman, 1890–1967)の盤、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong, 1901–1971)の盤などが上位群に含まれていました。1933年2月のアールシーエー・ヴィクター社(RCA Victor Company, Inc.)は、放送・ホテル出演との連携を維持しつつ、主力盤の流通を継続していたと整理できます。