1935年1月に録音された音楽

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1935年1月に録音された音楽

1935年1月は、政治・社会・航空の各面で大きな節目が重なった月でした。アメリカ合衆国では、リンドバーグ事件をめぐるブルーノ・リヒャルト・ハウプトマン(Bruno Richard Hauptmann, 1899–1936)の裁判が1月3日に始まり、事件報道は月初から国際的な注目を集めました。1月11日–12日にはアメリア・メアリー・イアハート(Amelia Mary Earhart, 1897–1937)がハワイからアメリカ本土への単独無着陸飛行に成功し、長距離航空の歴史に新しい到達点を示しました。1月13日には国際連盟(League of Nations)管理下のザール盆地地域(Territory of the Saar Basin)で住民投票が行われ、ドイツ復帰が決まりました。1月17日にはフランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882–1945)がアメリカ合衆国議会(United States Congress)へ社会保障立法を求め、ニューディール期の社会政策が新たな段階に入りました。1月29日にはアメリカ合衆国上院(United States Senate)が常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice)参加案を否決し、国際協調をめぐるアメリカ合衆国政治の限界も鮮明になりました。

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1935年1月の録音に関する情報のまとめ

1935年1月の録音業界では、新興企業の拡張、既存大手の廉価盤政策、旧来レーベルの整理が同時進行していました。デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)は設立直後の拡張期にあり、月内に連続した録音日程を組んで新譜供給を進めていました。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(Radio Corporation of America)では、主力のヴィクター(Victor)と廉価盤部門のブルーバード(Bluebird)が並行して市場を支えていました。アメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)は、ブランズウィック・レコード・コーポレーション(Brunswick Record Corporation)、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)、各種廉価レーベルを束ねる企業体として、多層的な供給網を維持していました。一方、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)のオーケー・レコード(Okeh Records)は1935年初頭には整理局面に入り、旧来の役割を保てなくなっていました。また、小規模ながらコンサート・ミュージック・ショップ社(Concert Music Shop, Inc.)のような新規参入も確認できます。

デッカ

デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)では、1935年1月にザ・ドーシー・ブラザーズ・オーケストラ(The Dorsey Brothers Orchestra)の録音が1月4日、11日、17日、18日、25日、26日に続けて行われました。設立後まだ日が浅いにもかかわらず、デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)が月内を通じて継続的に新譜制作を回していたことがわかります。1935年の同社は三十五セント盤を軸に勢力を広げつつあり、同月の連続セッションはその拡張期をよく示しています。

ヴィクター

ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(Radio Corporation of America)のヴィクター(Victor)では、1935年1月4日にウィリー・ブライアント・アンド・ヒズ・オーケストラ(Willie Bryant and His Orchestra)のニューヨーク録音が行われました。このセッションからはヴィクター(Victor)向けの発売番号が生まれており、同社が1935年初頭にも主力ブランドで新規録音を継続していたことが確認できます。さらに1月23日には、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(Radio Corporation of America)がボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestra)の録音を行い、その模様を放送で宣伝しており、商業録音と放送宣伝を結びつける動きも同月に見られました。

ブランズウィック

ブランズウィック・レコード・コーポレーション(Brunswick Record Corporation)は、法的には独立体を保ちながらも、実務ではアメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)と深く一体化していました。1935年1月21日にはキャブ・キャロウェイ・アンド・ヒズ・オーケストラ(Cab Calloway and His Orchestra)の録音が行われ、ブランズウィック盤として発売されるマスターが残されています。1934年後半に有力楽団の受け皿となった流れを受けて、1935年1月のブランズウィック・レコード・コーポレーション(Brunswick Record Corporation)は、整理対象ではなく主力ブランドとして機能していました。

アメリカン・レコード・コーポレーション

アメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)は、1935年1月の時点でアメリカ合衆国有数のレコード供給網を形成していました。ニューヨーク、シカゴ、各地の臨時録音拠点、自社プレス工場を持ち、ブランズウィック・レコード・コーポレーション(Brunswick Record Corporation)、コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)、各種廉価レーベルを束ねていました。1月15日と1月26日のニューヨーク録音では、同一マスターがバナー・レコード(Banner Records)、メロトーン・レコード(Melotone Records)、オリオール・レコード(Oriole Records)、パーフェクト・レコード(Perfect Records)、ロメオ・レコード(Romeo Records)、レックス・レコード(Rex Records)などへ振り分けられており、同社の企業活動が単一ブランドではなく、価格帯別・販路別の供給網として機能していたことが明瞭です。

コロムビア

コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)は、1935年1月には拡張よりも再配置の局面にありました。1934年半ば以降、同社の録音はアメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)の他ブランドと同じマスタープールで管理されるようになり、独立した主力ブランドとしての地位は弱まっていました。1935年初頭にはコロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)の役割がクラシカル盤と再発盤へ寄り、ポピュラー盤市場の中心は別ブランドへ移っていました。

オーケー

オーケー・レコード(Okeh Records)は、1935年1月時点ではすでに整理段階に入っていました。コロムビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company, Inc.)がアメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)へ吸収される過程で、オーケー・レコード(Okeh Records)は消去対象とされ、最終セッションは1934年11月に行われ、レーベル自体は1935年初頭に廃止されました。1935年1月の録音業界を見渡すと、オーケー・レコード(Okeh Records)は新規拡張の主役ではなく、消滅直前の整理対象として位置づけられます。

コンサート・ミュージック・ショップ

コンサート・ミュージック・ショップ社(Concert Music Shop, Inc.)は小規模ですが、1935年1月に実活動が明瞭に確認できるため、この月のページでは外せません。コンサート・ミュージック・ショップ社(Concert Music Shop, Inc.)は1935年初頭に自社レーベルを立ち上げ、その最初の発売用録音を1月14日に行いました。製造はアメリカン・レコード・コーポレーション(American Record Corporation)が担当しており、小売店系の小規模事業者が大手製造網を利用して参入した例として重要です。