1941年に録音された音楽
1941年は、第二次世界大戦(World War II, 1939–1945)が「地域紛争の連鎖」から「地球規模の総力戦」へ転じた年でした。ヨーロッパでは、ドイツ国(Deutsches Reich)が1941年6月22日にバルバロッサ作戦(Operation Barbarossa)を開始してソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)へ侵攻し、東部戦線の消耗戦が始まります。レニングラード包囲戦(Siege of Leningrad, 1941年9月開始)のような長期包囲は、軍事と民間人の生存を不可分にし、補給と冬季の環境が戦略そのものになります。同時に占領地では、親衛隊保安部(Sicherheitsdienst)などの機構と結び付いたアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)が大量殺害を拡大し、キーウ近郊のバビ・ヤール(Babi Yar, 1941年9月)の虐殺はその象徴的事件の一つとなりました。バルカン半島では枢軸国(Axis powers)がユーゴスラビア王国(Kingdom of Yugoslavia)とギリシャ王国(Kingdom of Greece)へ侵攻し、クレタ島の戦い(Battle of Crete, 1941年5月–6月)では大規模空挺作戦の成功と損耗が同時に示されました。北アフリカでは、ドイツアフリカ軍団(Deutsches Afrikakorps)を率いたエルヴィン・ロンメル(Erwin Rommel, 1891–1944)が主導する攻勢と連合国側の反攻が交錯し、トブルク包囲戦(Siege of Tobruk)やクルセーダー作戦(Operation Crusader, 1941年11月)など、補給線と機甲戦力の速度が勝敗を左右する構図が鮮明になります。
外交と産業の面では、アメリカ合衆国(United States of America)が武器貸与法(Lend-Lease Act, 1941年3月)でイギリス(United Kingdom)などへの支援を制度化し、参戦前から兵站と生産で戦争に深く関与しました。1941年8月、フランクリン・D・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt, 1882–1945)とウィンストン・チャーチル(Winston Churchill, 1874–1965)が示した大西洋憲章(Atlantic Charter)は、戦後秩序の理念を先取りして掲げます。年末の推移は決定的で、1941年12月7日の真珠湾攻撃(Attack on Pearl Harbor)を受けてアメリカ合衆国は対日宣戦し、続いてドイツ国とイタリア王国(Kingdom of Italy)も対米宣戦して、戦争は名実ともに世界戦争へ収束しました。
アジア太平洋では、大日本帝国が1941年4月の日ソ中立条約(Soviet–Japanese Neutrality Pact)で北方の当面の安定を確保しつつ、1941年7月の南部仏印進駐を経て資源確保を急ぎました。アメリカ合衆国による在米日本資産凍結と対日石油供給の制限(1941年7月)は交渉を硬直化させ、アメリカ合衆国国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull, 1871–1955)の提案文書(通称ハル・ノート(Hull Note), 1941年11月)を経て開戦へ至ります。日本の国内政治でも東條英機内閣(1941年10月)が成立し、総力戦体制の色彩がさらに濃くなりました。
この年のメディアと音楽は、戦争と技術の圧力で姿を変えました。ラジオ放送はニュース、演説、娯楽、募金を束ねる大衆動員の基盤となり、アメリカ合衆国では著作権使用料をめぐる対立からASCAPボイコット(ASCAP boycott, 1941年)が起こって、放送で流通する楽曲の勢力図が揺れます。映像では、オーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915–1985)の『市民ケーン(Citizen Kane)』(1941年)が公開され、表現と報道、権力の関係をめぐる議論を喚起しました。技術面では、コンラート・ツーゼ(Konrad Zuse, 1910–1995)のZ3(1941年)が計算機の自動化を現実のものにし、アメリカ合衆国では商業テレビジョン放送(commercial television, 1941年)が制度として始動して「同時に見る」体験が拡張します。1941年は、破壊の速度が増す一方で、音と映像の記録・伝達が政治と日常の意思決定に直結していく構造が、世界規模で可視化された年でした。
