1943年8月に録音された音楽

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1943年8月に録音された音楽

1943年8月は、第二次世界大戦の各戦線と戦時社会の緊張が重なった月でした。8月1日、アメリカ陸軍航空軍(United States Army Air Forces)は、ルーマニアのプロイェシュティ(Ploiești)油田地帯に対してタイダルウェーブ作戦(Operation Tidal Wave)を実施しました。同日から翌日にかけて、ニューヨークではハーレム暴動(Harlem Riot of 1943)が発生し、戦時下の人種差別と都市社会の不安が表面化しました。8月2日には、トレブリンカ第II絶滅収容所(Extermination Camp Treblinka II)でユダヤ人囚人による蜂起が起きました。8月15日、連合軍はコテージ作戦(Operation Cottage)でキスカ島に上陸しましたが、日本軍はすでに撤退していました。8月17日にはシュヴァインフルト=レーゲンスブルク任務(Schweinfurt–Regensburg mission)が実施され、アメリカ陸軍航空軍は大きな損失を受けました。8月17日–24日には第1回ケベック会談(First Quebec Conference)が開かれ、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882–1945)とウィンストン・チャーチル(Winston Churchill, 1874–1965)が戦略協議を行い、8月19日に原子力に関する協定(Agreement Relating to Atomic Energy)が署名されました。8月23日にはクルスクの戦い(Battle of Kursk)が終結し、東部戦線でドイツ軍の攻勢力低下が明確になりました。8月29日にはデンマークでサファリ作戦(Operation Safari)が実施され、ドイツ軍によるデンマーク軍武装解除とデンマーク王立海軍(Royal Danish Navy)の艦艇自沈が起きました。

この月の確認されている録音:0曲

1943年8月の録音に関する情報のまとめ

1943年8月のアメリカ録音産業は、ジェームズ・シーザー・ペトリロ(James Caesar Petrillo, 1892–1984)が率いるアメリカ音楽家連盟(American Federation of Musicians)の商業録音禁止の影響下にありました。主要レコード会社は通常の器楽伴奏付き新録音を自由に行えず、既存音源、声楽グループ伴奏による録音、在庫盤、再発売、映画・ラジオとの連動によって市場を維持していました。1943年8月のザ・ビルボード(The Billboard)では、デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)、コロムビア・レコーディング社(Columbia Recording Corporation)、アールシーエー・マニュファクチャリング社(RCA Manufacturing Co., Inc.)系のヴィクター(Victor)およびブルーバード・レコード(Bluebird Records)の盤が、戦時下の小売・ジュークボックス・黒人市場向けチャートで目立つ動きを示していました。

デッカ・レコード社

デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)は、1943年8月も商業録音禁止の制約を受けながら、既存録音と声楽主体の盤で市場を維持しました。ディック・ヘイムズ・アンド・ザ・ソング・スピナーズ(Dick Haymes and the Song Spinners)の「ユール・ネヴァー・ノウ(You’ll Never Know)」は、1943年8月の小売市場で強い動きを示しました。ビング・クロスビー・ウィズ・ザ・ケン・ダービー・シンガーズ(Bing Crosby with the Ken Darby Singers)の「サンデイ、マンデイ・オア・オールウェイズ(Sunday, Monday or Always)」も、通常のオーケストラ伴奏ではなく声楽グループを用いた録音として、録音禁止下の対応を示しています。ザ・ミルズ・ブラザーズ(The Mills Brothers)の「ペイパー・ドール(Paper Doll)」も同社の重要な既存録音として1943年の市場で大きく伸びました。1943年8月時点では、デッカ・レコード社(Decca Records, Inc.)とアメリカ音楽家連盟(American Federation of Musicians)の全面的な和解成立は当月資料上では確認できず、器楽伴奏を含む本格的な商業録音再開は翌月以降の動きとして扱う必要があります。

コロムビア・レコーディング社

コロムビア・レコーディング社(Columbia Recording Corporation)は、1943年8月に声楽主体の録音と既存音源の流通で存在感を示しました。フランク・シナトラ・ウィズ・ザ・ボビー・タッカー・シンガーズ(Frank Sinatra with the Bobby Tucker Singers)は、1943年8月5日に「ピープル・ウィル・セイ・ウィアー・イン・ラヴ(People Will Say We’re in Love)」と「オー、ホワット・ア・ビューティフル・モーニン(Oh, What a Beautiful Mornin’)」を録音しており、これは器楽伴奏を避けた録音禁止下の対応例として位置づけられます。同社系のオーケー・レコード(Okeh Records)では、アル・デクスター・アンド・ヒズ・トルーパーズ(Al Dexter and His Troopers)の「ピストル・パッキン・ママ(Pistol Packin’ Mama)」が1943年8月のザ・ビルボード(The Billboard)で注目され、ヒルビリー系レパートリーが全国的なレコード市場へ広がる過程を示しました。

アールシーエー・マニュファクチャリング社

アールシーエー・マニュファクチャリング社(RCA Manufacturing Co., Inc.)系のヴィクター(Victor)では、トミー・ドーシー・アンド・ヒズ・オーケストラ・ウィズ・フランク・シナトラ(Tommy Dorsey and His Orchestra with Frank Sinatra)の「イン・ザ・ブルー・オブ・イヴニング(In the Blue of Evening)」が1943年8月の小売チャートで首位級の動きを示しました。この盤は1942年録音の既存音源であり、1943年8月の同社活動は新規器楽録音の活発化ではなく、既存録音の発売・流通・販売拡大を中心としていました。ブルーバード・レコード(Bluebird Records)では、エルスキン・ホーキンズ・アンド・ヒズ・オーケストラ(Erskine Hawkins and His Orchestra)の「ドント・クライ、ベイビー(Don’t Cry, Baby)」が黒人向け市場で強い動きを示し、同社系レーベルが戦時下の黒人音楽市場にも継続して関与していたことが確認できます。