1946年8月に録音された音楽

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1946年8月に録音された音楽

1946年8月は、戦後世界の制度設計と社会不安の拡大が同時に進んだ月でした。8月1日、ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman, 1884–1972)が1946年原子力法(Atomic Energy Act of 1946)に署名し、米国の原子力政策は文民統制へ移行する法的基盤を得ました。同日には1946年フルブライト法(Fulbright Act of 1946)も成立し、戦後の国際教育交流を支える枠組みが整えられました。ハンガリーでは8月1日にハンガリー・フォリント(Hungarian forint)が導入され、極度のインフレーションからの通貨再建が始まりました。8月8日、コンヴェア XB-36 ピースメーカー(Convair XB-36 Peacemaker)が初飛行し、戦後の長距離戦略航空技術の到達点を示しました。8月16日、英領インドでは全インド・ムスリム連盟(All-India Muslim League)が定めた直接行動の日(Direct Action Day)を契機にカルカッタで大規模な宗派暴力が発生しました。8月31日、ジョン・ハーシー(John Hersey, 1914–1993)の『ヒロシマ』(Hiroshima)がザ・ニューヨーカー(The New Yorker)に掲載され、原爆被害の実相を国際社会へ強く伝えました。

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1946年8月の録音に関する情報のまとめ

1946年8月の米国録音業界では、戦後需要の拡大に対応するため、製造設備の増強、流通網の再編、海外配給の拡大、映画・ラジオとの連動、新規企業の立ち上げが並行して進みました。デッカ・レコード・インコーポレイテッド(Decca Records, Inc.)は西海岸拠点の拡張を構想し、キャピトル・レコード社(Capitol Records, Inc.)は第3工場の整備を進めました。コロムビア・レコーディング・コーポレーション(Columbia Recording Corporation)は販売店組織の強化と高級レパートリーの展開を図り、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ・アールシーエー・ヴィクター部門(Radio Corporation of America, RCA Victor Division)は映画音楽アルバムを準備しました。さらに、ミュージクラフト・レコード(Musicraft Records)の海外配給契約、コスモポリタン・レコード(Cosmopolitan Records)によるナショナル・レコード(National Records)の取得交渉、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(Metro-Goldwyn-Mayer, Inc.)系録音部門の人材確保、オーディエンス・レコード社(Audience Records, Inc.)の設立が確認できます。

デッカ・レコード

デッカ・レコード・インコーポレイテッド(Decca Records, Inc.)は、1946年8月の業界報道で、ハリウッドに新しい西海岸拠点を設ける構想を進めていると伝えられました。ジャック・カップ(Jack Kapp, 1901–1949)が候補地を探しており、計画中の施設には事務所、録音スタジオ、配給部門、サン・ミュージック社(Sun Music Co.)、ワールド・トランスクリプションズ(World Transcriptions)を収容する案が示されています。前年冬に開設されたプレス工場は、当面独立して稼働を続ける見通しとされました。また同月、同社の主要歌手や楽団の多くが西海岸に滞在していたため、ニューヨークでの録音は少なく、ハリウッドでの活動比重が高まっているとも報じられました。

キャピトル・レコード

キャピトル・レコード社(Capitol Records, Inc.)は、インディアナ州アンダーソンの大規模建物を購入し、同社第3のレコード製造工場として整備する計画が報じられました。設備は未導入で、稼働まで少なくとも6か月を要する見込みとされました。既存工場はスクラントンとハリウッドにあり、製造能力拡大の動きが明確に確認できます。さらに同月には、ジョー・スタッフォード(Jo Stafford, 1917–2008)による「ザ・シングズ・ウィ・ディド・ラスト・サマー(The Things We Did Last Summer)」の発売時期をめぐり、エドウィン・H・モリス社(Edwin H. Morris & Co.)との間で調整問題が生じていると報じられました。

コロムビア・レコーディング・コーポレーション

コロムビア・レコーディング・コーポレーション(Columbia Recording Corporation)は、同社初の販売店大会を1946年9月22日–24日にオハイオ州シンシナティのギブソン・ホテル(Gibson Hotel)で開催する計画を進めていました。1946年8月の報道では、約420人の販売店関係者を招待し、近隣のキングズ・ミルズ工場(Kings Mills plant)の見学も組み込む構想が示されています。また、フランク・シナトラ(Frank Sinatra, 1915–1998)を10月からマスターワークス(Masterworks)系統のアーティストとして扱い、アレック・ワイルダー(Alec Wilder, 1907–1980)の音楽を収めた12インチ盤アルバムを展開する方針も伝えられました。

アールシーエー・ヴィクター

ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ・アールシーエー・ヴィクター部門(Radio Corporation of America, RCA Victor Division)は、映画『デュエル・イン・ザ・サン』(Duel in the Sun)と連動した音楽アルバムの準備を進めていました。1946年8月の報道では、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin, 1894–1979)の映画音楽を、アーサー・フィードラー(Arthur Fiedler, 1894–1979)指揮のボストン・ポップス・オーケストラ(Boston Pops Orchestra)が演奏する企画として紹介されています。映画作品の宣伝と録音商品の展開を結びつける動きが、同月資料上で確認できます。

マジェスティック・レコード

マジェスティック・レコード・インコーポレイテッド(Majestic Records, Inc.)については、ジョン・ハモンド(John Hammond, 1910–1987)が同社でタレント発掘と録音監督を担う職務に就く可能性があると報じられました。ただし1946年8月時点では交渉段階であり、成立は確認できません。さらに、ベン・セルヴィン(Ben Selvin, 1898–1980)とエディ・ハワード(Eddy Howard, 1914–1963)が、コインマシン流通業者向けに特別盤を制作したとも伝えられ、販売支援策の一端が確認できます。

ミュージクラフト・レコード

ミュージクラフト・レコード(Musicraft Records)は、英国のエレクトリカル・ミュージカル・インダストリーズ・スタジオズ・リミテッド(Electrical Musical Industries Studios, Ltd.)との間で、海外38地域におけるプレスと配給を定めた3年契約を結んだと報じられました。交渉は数か月に及び、合意成立後にはウォルター・B・ムーディ(Walter B. Moody, 生没年不明)が英国へ戻ったと伝えられています。戦後の国際配給網再編の動きとして重要です。

コスモポリタン・レコードとナショナル・レコード

コスモポリタン・レコード(Cosmopolitan Records)は、ナショナル・レコード(National Records)の事業取得を進めており、1946年8月の報道では、交渉がほぼ完了段階にあると伝えられました。記事では、株式交換などの細部が未確定であるため、ナショナル・レコードの独自性はなお30日–60日程度維持される見通しとされています。その一方で、コスモポリタン・レコードはすでにナショナル・レコードの盤を流通させており、ペンシルベニア州フィリップスバーグとニューヨークの生産・発送機能も利用していたと報じられました。

メトロ系録音部門

メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(Metro-Goldwyn-Mayer, Inc.)の録音子会社は、1946年8月にデッカ・レコード・インコーポレイテッド(Decca Records, Inc.)からハリー・メイヤーソン(Harry Meyerson, 生没年不明)を迎え、ポピュラー部門のアーティスト・アンド・レパートリー責任者に据えたと報じられました。メイヤーソンはそれ以前に、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ・アールシーエー・ヴィクター部門(Radio Corporation of America, RCA Victor Division)の西海岸代表を務めた経歴があるとされています。映画会社による録音事業の本格化を示す動きとして注目されます。

オーディエンス・レコード

オーディエンス・レコード社(Audience Records, Inc.)は、1946年8月に複数の著名ラジオ出演者によって設立された新会社として報じられました。記事では、ジャック・ベニー(Jack Benny, 1894–1974)、フレッド・アレン(Fred Allen, 1894–1956)、エディ・カンター(Eddie Cantor, 1892–1964)らの名が挙げられています。同社は、劇場や放送スタジオで観客反応を含めて収録するトップ・テン(Top-Ten)名義の盤と、出演者自身による特別アルバムを扱うオーディエンス(Audience)名義の盤を構想していました。通常の放送番組をそのまま盤にするのではなく、家庭用聴取に限定した新しい商品形態を目指していた点が特徴です。