1950年に録音された音楽
1950年は、第二次世界大戦後に組み替えられつつあった国際秩序が、冷戦の対立として急速に前景化した年でした。1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の間で朝鮮戦争(Korean War、1950年6月25日–1953年7月27日)が始まり、アメリカ合衆国のハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman, 1884–1972)政権は国際連合安全保障理事会の決議などを背景に軍事対応へ踏み切りました。戦況は朝鮮半島の枠を越えて国際政治の焦点となり、1950年10月には中華人民共和国が介入して戦争の性格をさらに複雑化させました。
国際連合の制度面でも、この戦争は大きな影響を与えました。国際連合総会は1950年11月3日に「平和のための結集決議」(Uniting for Peace)を採択し、国際連合安全保障理事会が拒否権で機能しにくい局面でも、国際連合総会が集団的措置を検討し得るという枠組みを提示しました。戦後世界の「安全保障の意思決定」をどこで担保するのかという問題が、制度論としても突き付けられた年だと言えます。
ヨーロッパでは、戦争の再発を防ぐための統合が具体的な形を取りました。フランス共和国のロベール・シューマン(Robert Schuman, 1886–1963)は1950年5月9日にシューマン宣言(Schuman Declaration)を提示し、石炭・鉄鋼を超国家的に共同管理する構想が、後の欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community)へつながる道筋を開きました。権利保障の面では欧州評議会(Council of Europe)の枠組みで欧州人権条約(European Convention on Human Rights)が1950年11月4日にローマで署名され、戦後ヨーロッパの「法による秩序」の中核を形作っていきました。経済の現実面では、ヨーロッパ経済協力機構(Organisation for European Economic Co-operation)がヨーロッパ決済同盟(European Payments Union)を成立させ、貿易拡大と通貨・決済の調整を制度として支える方向へ進みました。
独立と国家建設、そして国内制度の再編も各地で進みました。インド共和国では1950年1月26日にインド憲法(Constitution of India)が施行され、ラジェンドラ・プラサド(Rajendra Prasad, 1884–1963)が初代大統領として国家の新体制を担いました。逆に、差別と排除を国家制度として固定化する動きも強まり、南アフリカ共和国では人口登録法(Population Registration Act, 1950)や集団地域法(Group Areas Act, 1950)などが制定され、アパルトヘイト(apartheid)の骨格が法制として補強されました。これに対し、国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)は1950年に『人種問題』(The Race Question)を公刊し、人種概念をめぐる科学的知見を国際社会の議論へ引き上げようとしました。
科学技術と制度の領域では、後の時代を規定する土台が静かに整えられていきます。世界気象機関(World Meteorological Organization)を設立する条約は1950年3月23日に発効し、観測・予報の国際協力が常設の仕組みとして固まっていきました。アメリカ合衆国ではアメリカ合衆国国立科学財団(National Science Foundation)が1950年に連邦機関として設立され、基礎研究支援の枠組みが制度化されました。アラン・チューリング(Alan Turing, 1912–1954)は1950年に『Computing Machinery and Intelligence』(Computing Machinery and Intelligence)を発表し、機械の知性を問う枠組みを社会へ広く投げかけました。大衆文化と消費の側面では、ダイナースクラブ(Diners Club)が1950年に多目的チャージカードとして登場し、都市の外食・移動・娯楽と結び付く新しい決済の回路を開きました。スポーツでは、1950年国際サッカー連盟ワールドカップ(1950 FIFA World Cup)の最終局面で1950年7月16日にウルグアイ東方共和国がブラジル連邦共和国を破り、巨大スタジアムを舞台にした一戦が「大衆的イベント」の象徴として語り継がれました。
