1959年に録音された音楽

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1959年に録音された音楽

1959年は、第二次世界大戦後の秩序が「冷戦」という張りつめた日常のなかで再編され、同時に大衆文化とメディアが世界の感情の配線を塗り替えていった年です。米国ではドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower, 1890–1969)の下、1959年1月3日にアラスカが49番目の州となり、同年8月21日にハワイが50番目の州として加わりました。核と宣伝の競争が激化する一方で、対話の演出もまた政治そのものになり、ニキータ・フルシチョフ(Nikita Sergeyevich Khrushchev, 1894–1971)は1959年9月15日–27日に米国を公式訪問し、相互の威嚇と融和の間を揺れる時代の空気を象徴しました。さらに同年7月、モスクワでの米国博覧会を舞台にリチャード・ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913–1994)とフルシチョフが応酬した「キッチン討論」は、生活水準や家電といった“家庭の風景”が国体の優劣を語る道具になることを示しました。

アジアでは統治と民族・宗教の問題が前景化し、チベットでは1959年3月10日に大規模な蜂起が起き、テンジン・ギャツォ(Tenzin Gyatso, 1935–)が同年3月にインドへ亡命する流れが固まりました。カリブ海でも革命の余波が現実の制度に変わり、キューバではフィデル・カストロ(Fidel Alejandro Castro Ruz, 1926–2016)政権下で1959年5月17日に農地改革法が公布され、米国との緊張は政策と経済を通じて積み上がっていきます。こうした地域の動揺は、国境線そのものだけでなく、人の移動、情報の移動、そして文化の移動を加速させました。

科学技術は、地政学と直結するかたちで宇宙へ伸びていきます。1959年9月、ソビエト連邦の無人探査機ルナ2号(Luna 2)は月面到達を果たし、10月にはルナ3号(Luna 3)が月の裏側の画像を地球へ送ることに成功しました。米国側でも宇宙開発は国家的事業として具体化し、1959年4月9日に「マーキュリー計画(Project Mercury)」の飛行士7名が公表され、宇宙飛行が“遠い夢”から“国民的番組”へ近づいていきます。地球規模では、1959年12月1日に南極条約(Antarctic Treaty)が署名され、領有と軍事化を抑えて科学調査と平和利用を掲げる枠組みが整えられました。冷戦は境界線を増やした一方で、地球という舞台を共有するための取り決めも同時に生み出していた、というねじれが見えてきます。

この年の文化の動きは、とりわけ「音」が社会をまとめる速度を上げました。1959年2月3日、バディ・ホリー(Buddy Holly, 1936–1959)、リッチー・バレンス(Ritchie Valens, 1941–1959)、ザ・ビッグ・ボッパー(The Big Bopper, 1930–1959)が航空機事故で亡くなり、ロックンロールの世代交代の痛みが早くも刻印されます。一方で制度化された“栄誉”も始まり、1959年5月4日に第1回グラミー賞(The 1st Annual Grammy Awards)が開催され、録音芸術を表彰する仕組みが産業の中枢へ入っていきました。企業の側でも、ベリー・ゴーディ(Berry Gordy III, 1929–)が1959年1月12日にタムラ・レコード(Tamla Records)を創設し、のちのモータウン(Motown)へ連なる基盤を築きます。個々のヒットだけでなく、レーベル、賞、メディアが結びつき、ポピュラー音楽が“継続的に生産・流通・記憶される装置”になっていく転換点として1959年を捉えられます。

作品としても、録音と舞台がそれぞれの領域で「標準」を作りました。マイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis III, 1926–1991)のアルバム『カインド・オブ・ブルー(Kind of Blue)』は1959年8月17日にリリースされ、モードという方法で即興と構造の関係を更新します。デイヴ・ブルーベック・カルテット(The Dave Brubeck Quartet)の『タイム・アウト(Time Out)』は1959年に発表され、変拍子を大衆的な聴取体験へ引き寄せました。舞台では『サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)』が1959年11月16日にブロードウェイで初演され、歌が物語を運ぶ「劇場の音」の強度を改めて示します。さらに消費文化の象徴として、1959年3月9日にバービー(Barbie)がニューヨークの玩具見本市で公開され、広告、テレビ、流通が作る“理想像”が家庭へ入り込む回路が強化されました。

こうして1959年は、国家が宇宙と地球をめぐって競い合い、地域の革命と統治の緊張が拡がる一方で、録音・放送・表彰・レーベル・舞台といった複数の仕組みが結びつき、「音楽が社会の共通言語になる速度」を一段押し上げた年でした。出来事の大小以上に、音がどのように記録され、複製され、流通し、記憶として固定されるかという回路が、国際政治の緊迫と同じくらいの力で世界を再編していたことが、1959年の核心として浮かび上がります。