Israel in Egypt
「Israel in Egypt(イスラエル・イン・エジプト)」は、1739年に作曲されたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの代表的なオラトリオの一つで、彼の宗教音楽の中でも特に壮麗な合唱曲として知られています。この作品は「メサイア」と並んで、合唱を中心に構築された点でユニークであり、当時のロンドンの聴衆に新たな音楽体験を提供しました。
題材
このオラトリオは、旧約聖書「出エジプト記」を題材に、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放される物語を描いています。ヘンデルは、聖書のテキストをほとんどそのまま使用し、物語の叙述をナレーション的なレチタティーヴォやアリアで進めるのではなく、合唱を用いて物語をドラマティックに表現しました。この点が、当時のオラトリオとしては極めて革新的でした。
構成
「Israel in Egypt」は当初、3部構成で初演されました。第1部は「イスラエルの子らの嘆き」として、ヨセフの死後にイスラエルの民がエジプトでの過酷な労働に苦しむ様子を描きます。第2部は「エジプトの災いと脱出」で、モーセとアロンが神の命令を伝え、エジプトに次々と災いが下される場面が描かれます。第3部は「紅海の越境と勝利の歌」で、イスラエルの民が紅海を渡り、追撃してきたファラオの軍勢が海に呑まれる場面、そして勝利を讃える賛歌で締めくくられます。
しかし、初演後、長すぎるという批判を受け、ヘンデル自身が第1部を削除し、現在では通常、第2部と第3部のみが演奏される形が一般的です。この短縮版でも、合唱が圧倒的な比重を占め、全体のほとんどが合唱曲で構成されています。ソロのアリアはわずか数曲しかなく、ヘンデルの他のオラトリオと比べて特異な構造です。
特徴
この作品の最大の特徴は、合唱の多彩さと迫力です。エジプトの災いのシーンでは、カエルの群れ、ハエ、雹、暗黒などが音楽で鮮やかに描写されます。例えば「He spake the word」では、楽器の音型と合唱の掛け合いでバッタの群れが生き生きと表現され、「And there came all manner of flies」では飛び回る虫の様子が巧みに音で表されています。これらの描写は、まるでオペラのように絵画的で、聴衆に強い印象を与えました。
また、勝利の場面では、荘厳なフーガや壮麗なポリフォニーが用いられ、イスラエルの民の歓喜と神への賛美が高らかに歌われます。特に「The Lord shall reign for ever and ever」「Sing ye to the Lord」などのコーラスは、ヘンデルの合唱曲の中でも屈指の名作として評価されています。
後世への影響と評価
「Israel in Egypt」は初演当時、長大かつ合唱主体という構成が斬新すぎたため、必ずしも聴衆には好まれませんでした。しかし後年、この作品の革新性と合唱音楽としての完成度は高く評価され、今日では合唱団のレパートリーとして世界中で演奏され続けています。
この作品の意義は、ヘンデルがオラトリオという形式を通じて、物語のドラマ性を合唱主体で描き切った点にあります。これは後の「メサイア」にも引き継がれ、合唱による物語の推進というヘンデル独自のスタイルを確立させました。また、バロック期の音楽が描写性と劇的表現を高めた好例としても、音楽史的に重要な作品とされています。
演奏史的には、19世紀以降のイギリスでは合唱団による演奏会文化が盛んになり、その中で「Israel in Egypt」は大合唱作品として大規模な演奏会に取り上げられました。合唱団にとってはテクニカルな難易度も高く、声部間の緻密なアンサンブルが求められるため、挑戦的なレパートリーとして位置づけられています。
ヘンデルの「Israel in Egypt」は、単なる宗教作品にとどまらず、オーケストラと合唱の色彩的な融合、テキストと音楽の描写的表現を極めたオラトリオとして、今日も多くの音楽家や聴衆に愛されています。その壮麗な響きは、現代のホールでも聴く者を古代の物語世界へと引き込む力を持っているのです。
