Selection Marquis (I), (II) flute / Frank Goede (1889)
1889年5月24日、エジソン社の録音技師 A. Theo. E. Wangemann はベルリンで複数の録音を実施しました。その中に記録されている「Selection Marquis」という題名は、正確には特定の1曲名ではなく、当時の録音簿で使われた「セレクション（Selection）」という言葉が示す通り、オペラや軽音楽の中から短い楽節を抜粋して演奏した「抜粋曲（セレクション）」を意味します（Welch & Rogers 1994, Feaster 2007）。19世紀後半、軍楽隊やサロン楽団がオペラや舞台音楽の一部を編曲して「セレクション」として演奏するのは一般的でした。「Marquis」という題名単体では有名なオペラや楽曲は確認されていませんが、フランス語の“Marquis”は貴族階級の侯爵を指す語で、当時の軽音楽においては貴族を題材にした行進曲やダンス曲、または短いマーチ風の組曲の題名としてよく使われました。録音簿には作曲者名が残されておらず、詳細な譜面も現存していませんが、演奏者 Frank Goede がピッコロ独奏を含む吹奏楽パートを演奏した可能性が高く、短い行進曲またはオペラの序曲の一部だったと推定されています。
同じ曲が2回録音された理由
録音簿に「Selection Marquis (I)」と「(II)」の2つが連続で記録されているのは、同じ楽曲を2回続けて演奏し、別々の蝋円筒に録音したことを示します。これは当時の録音実験の一般的な手法で、同じ曲を複数回録音することで録音針の状態や蝋円筒の素材差、録音条件の微細な違いを比較するために行われました（Feaster 2007, ARSC Journal）。当時のフォノグラフは、演奏者がマイクに近づく距離や針の圧力によって音質が大きく変わるため、録音デモとして複数のテイクを残すのが重要でした。ワンゲマンはエジソンから「欧州で最良の録音性能を示せ」という指示を受けており、特に高音楽器や行進曲は録音媒体に刻みやすいため、実験とデモを兼ねて同じ曲を数回演奏させました。このため、録音簿には「Marquis (I)」と「(II)」が別々に管理され、後にデモンストレーション用に再生する際に、音質の良いテイクを優先して選ぶことができました。
初期録音史における意味と現在の価値
「Selection Marquis」は当時、演奏者 Frank Goede の高い技量とワンゲマンの録音技術の両方を示すためのデモ用レパートリーとして重要な役割を果たしました。残念ながら、こうした実験録音は蝋円筒自体が非常に脆く、長期保存には向かなかったため、現存する円筒は極めて少なく、「Selection Marquis」の音声そのものは失われていると考えられています（Welch & Rogers 1994）。しかし、録音簿に残る「Selection Marquis」という題名は、19世紀末における録音テストの具体的な選曲例として、音楽史研究や録音史研究で度々引用されています。また、こうした短いセレクションは後の商用円筒カタログでもモデルとなり、行進曲の一部を抜粋して1本の蝋円筒に収める手法は、1900年前後のエジソンの商用録音カタログに多く受け継がれました。つまり「Selection Marquis (I)」「(II)」は単なる技術試験ではなく、商業録音へ移行する前段階としても重要な試みだったといえます。こうした残されたメモは、当時の録音現場がどのように繰り返し実験を行い、限られた機材で最大の音質を引き出そうとしたかを知る手がかりとして、今日でも重要な史料とされています。
JA