1905年3月に録音された音楽

This article can be read in about 5 minutes.
Sponsored Links

1905年3月に録音された音楽

1905年3月は、戦争と制度改革、都市消費文化の拡大が同時進行した月でした。日露戦争では奉天会戦が1905年3月10日に終結し、日本軍が南満洲で決定的優位を得ました。ロシア帝国では、ニコライ2世(Nicholas II, 1868–1918)が1905年3月3日に国家代表機関の設置に同意し、ロシア帝国国家院(State Duma of the Russian Empire)の創設へ動きます。イタリア王国ではジョヴァンニ・ジョリッティ(Giovanni Giolitti, 1842–1928)が1905年3月に辞任し、月末にアレッサンドロ・フォルティス(Alessandro Fortis, 1841–1909)の内閣が成立しました。南米では、チリ共和国とボリビア共和国の平和友好条約(Treaty of Peace and Friendship between Chile and Bolivia, 1904)が1905年3月に発効し、国境問題を制度的に確定させます。パリではマタ・ハリ(Mata Hari, 1876–1917)が1905年3月13日にギメ東洋美術館(Musée Guimet)で舞台デビューし、都市の大衆文化を象徴しました。ミュンヘンではオーバーポリンガー(Oberpollinger)が1905年3月14日に開業し、大型百貨店が近代消費の舞台として存在感を強めます。一方、アメリカ合衆国では1905年3月20日にマサチューセッツ州ブロックトンのグローヴァー靴工場爆発事故(Grover Shoe Factory disaster)が発生し、産業安全をめぐる社会問題を可視化しました。

Confirmed recordings this month: 0

1905年3月の録音に関する情報のまとめ

1905年3月は、円筒レコード(シリンダー)と円盤レコード(ディスク)の両市場が並走しながら拡大していた時期です。トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)系の流通では、エジソン・ゴールド・モールデッド・レコード(Edison Gold Moulded Records)を軸に、販売網向けの「新譜予告・販売統制・注文締切」などが月次で整理されていました。同時に、ディスク分野では低価格帯や新興レーベルが台頭し、従来の大手主導とは異なる流通戦略も目立ちます。

エジソン・フォノグラフ・マンスリー1905年3月号にみる4月新譜(円筒)

エジソン・フォノグラフ・マンスリー(Edison Phonograph Monthly)1905年3月号は、1905年4月分の新譜(エジソン・ゴールド・モールデッド・レコード)を「Advance List」として掲げ、卸(ジョバー)への在庫注文締切や、見本盤の扱い(一般販売禁止など)を含む運用ルールを明示しています。掲載例として、エジソン・コンサート・バンド(Edison Concert Band)による「Al Fresco(Intermezzo)」(作曲:ヴィクター・ハーバート(Victor Herbert, 1859–1924))や、ビリー・マレー(Billy Murray, 1877–1941)の流行歌などが並び、当時の娯楽市場(流行歌・ラグタイム・寸劇歌など)に即したラインナップが確認できます。

インターナショナル・レコード・カンパニーの「エクセルシオル」レーベル(ディスク)

インターナショナル・レコード・カンパニー(International Record Company)は1905年初頭に「エクセルシオル」レーベル(Excelsior label)を投入し、価格訴求(大手より低価格)と量販条件を武器にディスク市場へ食い込みました。初期は9インチ盤も見られ、のちに標準的な10インチ盤へ移行したこと、またプレス面の識別情報(番号等)が乏しい個体が多いことなど、同社ディスコグラフィが整理しています。1905年3月そのものの個別録音日付は別途の確定資料が必要ですが、「1905年初頭の市場投入」という時間軸は一次資料級の編纂物で確認できます。

リーズ・アンド・キャットリン社の「インペリアル」レーベル登場(ディスク)

リーズ・アンド・キャットリン社(Leeds & Catlin Company, 英語正式名称不明)の社内レーベル構成では、1905年に「インペリアル」レーベル(Imperial label)が登場し、箔ラベル期の盤を置き換えていく流れが示されています。これは1905年前後のディスク量産・ブランド多層化(同一マスターの複数ラベル供給を含む)を理解する上で重要な変化です。1905年3月の個別リリース断定は避けるべきですが、少なくとも「1905年にImperialが現れた」という事実は編纂資料上で確認できます。