Music recorded in April 1909

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Music recorded in April 1909

1909年4月は、探検、帝国政治、都市形成、資源開発、宗教文化が同時に動いた月でした。4月6日にはロバート・エドウィン・ピアリー(Robert Edwin Peary, 1856–1920)とマシュー・アレクサンダー・ヘンソン(Matthew Alexander Henson, 1866–1955)らが北極点到達を主張し、極地探検競争は新段階に入りました。4月11日にはヤッファ郊外でアフザト・バイト(Ahuzat Bayit)の宅地抽選が行われ、のちのテルアビブ(Tel Aviv)の起点が築かれました。オスマン帝国(Ottoman Empire)では4月に三月三十一日事件(31 Mart Vakası)が広がり、4月27日にはアブデュルハミト2世(Abdulhamid II, 1842–1918)が退位しました。その混乱のなかでアダナではアルメニア人に対する大規模虐殺が発生しました。さらに4月14日にはアングロ・ペルシアン石油会社(Anglo-Persian Oil Company, Limited)が設立され、4月18日にはジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc, 1412年頃–1431)が列福されました。

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1909年4月の録音に関する情報のまとめ

1909年4月の録音界では、ナショナル・フォノグラフ会社(National Phonograph Company)がアンベロール盤の拡大を前提に標準盤の整理を進め、同時に4月向け新譜の全国広告も展開していました。流通面では廉価販売をめぐる差止め措置が誌面に掲載され、価格統制を重視する姿勢が明確です。さらにディスク業界では、リーズ・アンド・キャトリン会社(Leeds & Catlin Company)をめぐる特許訴訟が1909年4月に大きく動き、アメリカのレコード市場再編を促しました。

標準盤300点削減方針

1909年4月号の『エジソン・フォノグラフ・マンスリー』では、ナショナル・フォノグラフ会社(National Phonograph Company)が国内向け標準盤300点を1909年8月1日付でカタログから外す方針を公表しています。誌面では、これらが「売れない品」ではなく、なお販売実績のある良好な選択であることを認めつつも、総カタログ点数を圧縮する必要から整理すると説明しています。さらに、8月まで毎月20点の標準盤と20点のアンベロール盤を追加したうえで300点を削除すると、総数は標準盤1,469点、アンベロール盤194点になると明記されています。

4月新譜の告知とアンベロール盤の前面化

1909年4月向け広告では、4月新譜の標準盤とアンベロール盤が3月25日に用意されると告知されており、4月販売分を前月末に店頭へ送り出す販売サイクルが確認できます。広告文面では『Happy Days March』や、全曲を収めたアンベロール盤の新録音が強調されており、ナショナル・フォノグラフ会社(National Phonograph Company)が二分盤と並行しつつも、長時間再生のアンベロール盤を積極的に前面へ押し出していたことが分かります。

ジョセフ・G・ウィリアムズ差止め事件

1909年4月号は、マサチューセッツ州ウースターの認定小売店ジョセフ・G・ウィリアムズ(Joseph G. Williams, 生没年不明)が、在庫処分のためエジソン・レコードを廉価広告した件を掲載しています。記事によれば、ナショナル・フォノグラフ会社(National Phonograph Company)は警告後も販売が続いたため特許侵害訴訟を起こし、1909年3月4日付の差止命令を得ました。1909年4月時点で同社が価格維持と流通統制を、録音物販売政策の中核に置いていたことを示す一次資料です。

リーズ・アンド・キャトリン会社を揺るがせた特許訴訟

1909年4月は、リーズ・アンド・キャトリン会社(Leeds & Catlin Company)にとって決定的な月でした。アラン・サットン(Allan Sutton)による整理では、4月14日にコロムビア側特許をめぐる控訴審判断があり、さらに4月19日には合衆国最高裁判所がヴィクター・トーキング・マシン会社(Victor Talking Machine Company)側に有利な判断を示しました。これにより、同社の事業継続は大きく揺らぎ、1909年春のディスク市場では無許諾系事業者の退潮がいっそう鮮明になりました。