1890年7月に録音された音楽
1890年7月は、各国で「国家のかたち」をめぐる動きが同時多発した月でした。日本では1890年7月1日に第1回衆議院議員総選挙が実施され、制限選挙とはいえ立憲政治の実務が動き始めます。いっぽう欧州列強は同日調印の英独協定(ヘルゴラント=ザンジバル協定)でアフリカ・東アフリカの勢力圏を再調整し、帝国主義の「地図の引き直し」が外交文書として固定化されました。アメリカ合衆国では7月2日にシャーマン反トラスト法が成立し、巨大企業の独占を“連邦法で”縛る発想が制度化され、7月14日のシャーマン銀購入法は通貨・金融政策をめぐる緊張をさらに可視化します。同じ月の7月3日と7月10日にはアイダホとワイオミングが州に昇格し、西部の統合が政治日程として確定していきました。文化面ではフィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853–1890)が1890年7月29日に死去し、その死は同時代の芸術の評価軸が大きく揺れ始める象徴にもなります。なお1889–1890年の世界的流行(いわゆる「ロシアかぜ」)の余波も1890年まで断続的に報告されており、公衆衛生と都市生活の不安はまだ終わっていませんでした。
この月の確認されている録音:0曲
1890年7月の録音に関する情報のまとめ
1890年7月の録音まわりの動きは、実際の「録音日」が一次資料できれいに押さえられる例(鐘の音や歴史的人物の肉声)が増えはじめ、同時にその録音物が国境をまたいで“見世物/通信/寄付”の文脈で流通していくのが見える時期です。ここでは、7月に直接言及される録音そのものに加えて、同月の展示・流通・機器価格といった「録音文化」を動かした周辺情報も、録音史の文脈でピックアップします。
ビッグ・ベン鐘楼の実地録音(ロンドン/1890年7月16日)
1890年7月16日、ロンドン(ウェストミンスター)のビッグ・ベン(Big Ben)の打鐘を蝋円筒に収めた記録録音が残っています。米国エジソン国立歴史公園(NPS)の目録では、この録音は「10時30分(half past 10)・10時45分(quarter to 11)・11時」の打鐘を録った未発売のエジソン褐色蝋円筒で、ミス・ファーガソン(Miss Ferguson, 生没年不詳)とグラハム・ホープ(Graham Hope, 生没年不詳)がジョージ・エドワード・グーラウド(George Edward Gouraud, 1842-1912)のために録音したものとされています(NPS object catalog number: EDIS 39839)。
一方で、別の文献(円筒録音のリストを引用する箇所)には「Big Ben, 4 p.m. 16th July/90」という“午後4時”つきの表記が見え、同日付で“Big Ben, 4 p.m. 16th July/90”と記すリストもあり、同一円筒の時刻違いというより、同日の別テイク(別円筒)や伝聞経路の違いが混在している可能性があります。現状は、NPS目録の時刻情報(10:30/10:45/11:00)と、別資料側の“4 p.m.”表記の両方が確認できます。

フローレンス・ナイチンゲールの肉声録音(ロンドン/1890年7月30日)—録音担当とアナウンス
1890年7月30日、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820-1910)はロンドンの自宅で、ライト・ブリゲード救済基金(Light Brigade Relief Fund)の募金のために短いメッセージを蝋円筒へ録音しました。基金は1890年5月に「退役兵が困窮している」ことが問題化したのを受けて設けられ、ジョージ・グーラウド(George Edward Gouraud, 1842-1912)が募金支援として複数の録音を企画した流れの中で、この“肉声円筒”が残ったと説明されています。
この録音は、グーラウドのロンドン拠点(Edison House)で活動したレコーディスト、C・R・ジョンストン(C. R. Johnstone, 生没年不詳)が担当し、冒頭の紹介(アナウンス/introduced)は録音マネージャーのメアリー・ヘレン・ファーガソン(Mary Helen Ferguson, 生没年不詳)が入れた、と資料上は整理されています。
原媒体は蝋円筒で、同一内容の「2つの演じ分け(別テイク)」が同一円筒に入っていたことが確認され、のちに原円筒からの転写が行われ、1935年に78回転盤として商用発売された経緯まで追えます。


アルフレッド・テニスンの自作朗読円筒(1890年7月の収録とされる)
アルフレッド・テニスン(Alfred Tennyson, 1809-1892)の朗読円筒は、チャールズ・ステイトラー(Charles Steytler, 生没年不詳)がテニスン宅(ワイト島)で録音した、と同時期の文脈で語られ、7月の“肉声録音”の連鎖として位置づけられます。
「エジソン・ハウス」系の録音チームと“声のコレクション”志向
ロンドンの拠点(Edison House)では、複数のレコーディストが機材を持って巡回・実演しつつ、著名人の声や象徴的な音を“収集して残す”方向へ傾き、1890年7月の記録録音(鐘・肉声)につながります。
メルボルンでの録音物プログラム上映(1890年7月/録音の“輸入・再生”)
メルボルンの蝋人形館(Kreitmayer’s Waxworks and Museum)では、世界各地の演奏・歌唱の録音に加え、英国から豪州向けのメッセージ類も再生され、録音が“国際的な音の郵便”として機能していた様子がうかがえます。
盤式グラモフォン側の動き(1890年7月の価格決定)
ベルリナー式の盤(ディスク)系では、カマー&ラインハルト社(Kämmer & Reinhardt)が1890年7月にグラモフォン本体40マルク、レコード1マルクの工場出し価格を定めた、という記録があり、円筒と並走する“別ルートの録音商品化”が進みます。

