1953年に録音された音楽

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1953年に録音された音楽

1953年は、第二次世界大戦後の緊張が「停戦」と「介入」と「核」の形で再編され、同時に大衆文化を運ぶ回路として放送と映像が加速した年でした。朝鮮半島では1953年7月27日に板門店(Panmunjom)で朝鮮戦争休戦協定(Korean Armistice Agreement)が調印され、同日中に効力が発生して銃撃戦はいったん停止しましたが、政治的な最終解決が先送りされたまま、停戦線そのものが長期化する現実を示しました。

権力構造の変化も急でした。ソビエト社会主義共和国連邦(Union of Soviet Socialist Republics)の指導者であったヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878–1953)が1953年3月5日に死去すると、冷戦の硬直した均衡は「指導部の変動」と「民衆の噴出」を伴って揺れます。ドイツ民主共和国(German Democratic Republic)では1953年6月16日に東ベルリン(East Berlin)の労働者抗議が始まり、翌日にかけて各地へ広がりましたが、ソビエト側の軍事力で鎮圧されました。一方で核をめぐる競争は止まらず、1953年8月12日にはソビエト側でRDS-6sが実験され、破壊力の拡大が現実の政策環境として常態化していきます。

中東では、資源と安全保障の論理が政治を直接に動かしました。イラン(Iran)では首相のモハンマド・モサッデク(Mohammad Mosaddegh, 1882–1967)が1953年8月19日にクーデターで失脚し、モハンマド・レザー・パフラヴィー(Mohammad Reza Pahlavi, 1919–1980)の権力が強化されます。背景にはアメリカ合衆国(United States of America)の中央情報局(Central Intelligence Agency)と、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の秘密情報部(Secret Intelligence Service)による工作があったと整理されています。同年12月8日、ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower, 1890–1969)は国際連合総会(United Nations General Assembly)で「平和のための原子力」演説(Atoms for Peace)を行い、核兵器の脅威と原子力の平和利用という二つの顔を同じ舞台に載せました。また同年6月19日にはジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg, 1918–1953)とエセル・ローゼンバーグ(Ethel Rosenberg, 1915–1953)が処刑され、諜報と恐怖が「日常のニュース」として消費される冷戦社会の輪郭も濃くなります。

科学と文化は、別の速度で世界をつなぎました。1953年4月25日付の『ネイチャー(Nature)』にジェームズ・D・ワトソン(James D. Watson, 1928–)とフランシス・クリック(Francis Crick, 1916–2004)がデオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)の二重らせん構造を示す論文を発表し、生命観と医療の将来像に長い影響を与える入口が開かれます。1953年5月29日にはエドモンド・ヒラリー(Edmund Hillary, 1919–2008)とテンジン・ノルゲイ(Tenzing Norgay, 1914–1986)がエベレスト(Mount Everest)の登頂に成功し、探検のニュースが国際的な同時体験として流通しました。そして同年6月2日、エリザベス2世(Elizabeth II, 1926–2022)の戴冠式がウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)で行われ、テレビ中継によって世界中が儀礼を「同じ映像」で共有します。日本でも1953年2月1日に日本放送協会がテレビ本放送を開始し、1953年8月28日には日本テレビ放送網株式会社が本放送を開始しました。こうした放送網の拡張は、音楽や映画や広告を「同じ時刻に同じ体験として」届ける器を広げ、レコードやラジオ中心だった大衆音楽の循環に、新しい視覚メディアの入口を付け加えていきます。さらに同年、南アフリカ(South Africa)ではバントゥー教育法(Bantu Education Act, 1953)が制定され、制度としての人種隔離が教育へ深く組み込まれていきました。世界の政治が分断と統制へ傾く一方で、科学の発見と放送技術の普及は、国境を越えた同時性を拡大し、ポピュラー音楽が「出来事」と結びつきながら広がる時代の地ならしを進めた年でもあります。