1908年11月に録音された音楽

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1908年11月に録音された音楽

1908年11月は、政治、外交、植民地統治、技術、公衆衛生の各分野で転換が重なった月でした。11月3日のアメリカ合衆国大統領選挙では、ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft, 1857–1930)がウィリアム・ジェニングス・ブライアン(William Jennings Bryan, 1860–1925)を破りました。中国ではグアンシュー帝(Guangxu Emperor, 1871–1908)が11月14日に没し、翌15日にツーシー太后(Empress Dowager Cixi, 1835–1908)も死去して、プーイー(Puyi, 1906–1967)への継承が定まりました。同じ11月15日にはコンゴ自由国(Congo Free State)がベルギー領コンゴ(Belgian Congo)へ移行し、植民地支配の枠組みも変化しました。11月16日にはジェームズ・マレー・スパングラー(James Murray Spangler, 1848–1915)が電気式清掃機器の特許を出願し、家庭技術の実用化が進みました。さらに11月30日にはアメリカ自然史博物館(American Museum of Natural History)で国際結核博覧会(International Tuberculosis Exhibition)が開幕し、同日にはイーライヒュー・ルート(Elihu Root, 1845–1937)と高平小五郎(1854–1926)による日米交換公文も交わされました。

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1908年11月の録音に関する情報のまとめ

1908年11月の録音界では、エジソン・アンベロール・レコード(Edison Amberol Record)の普及が販売実務の中心に入り、既存機へのアタッチメント装着、二分盤と四分盤の使い分け、旧来カタログの整理が同時進行していました。一方、コロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)は、インデストラクティブル・フォノグラフィック・レコード・カンパニー(Indestructible Phonographic Record Company)の製品を自社商標で流通させ始めており、シリンダー市場は新方式への移行と競争の再編が重なる時期に入っていました。

アンベロール普及の本格化

1908年11月の販売資料では、既存の蓄音機所有者にアタッチメントを装着してアンベロール盤を再生できるようにすることが、販売店にとって重要な営業課題として示されていました。先行注文を集めること、納品待ちを見込みながら受注を進めること、さらにアンベロール盤1本で従来の二分盤2本分に近い娯楽価値を訴えることが勧められており、この時期の市場が新方式の普及段階にあったことが確認できます。

二分盤と四分盤の使い分け

1908年11月号の『エジソン・フォノグラフ・マンスリー』では、二分盤にはモデルC、アンベロール盤にはモデルHのリプロデューサーを使うよう明示し、スタンダード機、ホーム機、トライアンフ機での切替位置まで具体的に指示しています。誤った組み合わせは盤を損傷させるおそれがあるとされており、1908年11月が二分盤と四分盤の併売期であったこと、そして再生方法の周知そのものが販売実務の一部になっていたことがわかります。

英国盤四十二点の整理

同じ1908年11月号では、英国カタログから外れた四十二点の英国盤を12月1日以後に製造中止とし、その後は在庫分のみを販売する方針が示されていました。これは単なる削減ではなく、アンベロール普及と並行して旧来の外国盤ラインを整理する動きでもあり、1908年11月の録音産業が商品構成の見直しを進めていたことを示しています。

コロンビアのインデストラクティブル販売体制

コロンビア・フォノグラフ・カンパニーは1908年初頭に自社でのシリンダー録音を停止し、9月25日にインデストラクティブル・フォノグラフィック・レコード・カンパニーを取得しました。そして1908年秋から、同社製シリンダーをコロンビア商標で販売し始めています。したがって1908年11月のシリンダー市場は、エジソンがアンベロールを軸に自社方式の更新を進める一方で、コロンビアが外部製造品を自社ブランドで流通させる体制へ移っていた時期として位置づけられます。