1911年10月に録音された音楽

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1911年10月に録音された音楽

1911年10月は、政治体制の崩壊、科学の転換、戦争技術の変化が同時に進んだ月でした。中国では10月10日の武昌起義を起点に辛亥革命が各地へ波及し、清朝(Qing dynasty)の統治を揺るがしました。メキシコでは革命後の大統領選挙でフランシスコ・イグナシオ・マデロ・ゴンサレス(Francisco Ignacio Madero González, 生没年不明)が圧勝し、新体制への移行が現実味を帯びました。北極探検で知られるロアール・アムンセン(Roald Amundsen, 1872–1928)は10月19日に南極点を目指して出発し、探検史の大勝負が始まりました。また伊土戦争(Italo-Turkish War)では10月23日に航空機が実戦偵察に用いられ、戦争の様相が新段階へ入りました。10月末にはブリュッセルで第1回ソルベー会議(First Solvay Conference)が開かれ、物理学の根本問題が国際的に議論されました。さらに10月29日には新聞王ジョーゼフ・ピュリツァー(Joseph Pulitzer, 1847–1911)が死去し、19世紀的な大衆報道の時代を象徴した人物の幕が閉じました。

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1911年10月の録音に関する情報のまとめ

1911年10月の録音業界では、トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)の業界向け媒体『エジソン・フォノグラフ・マンスリー(Edison Phonograph Monthly)』10月号が重要な手がかりになります。この号では、新型ディスク機の本格供給がなお遅れていること、しかし既存の円筒式製品群は継続販売する方針であることが明示されました。また、1911年12月発売予定の新譜が告知され、年末商戦に向けた四分シリンダーと二分シリンダーの新作が並びました。さらに、ヘブライ語圏需要を意識した付属レコード企画も打ち出され、当時の録音産業が英語圏以外の市場を意識していたことも確認できます。

新型ディスク機の遅延と円筒式製品継続方針

1911年10月号に掲載された業界向け書簡では、新しいディスク式蓄音機とディスク盤の完成・量産化が想定より遅れており、少なくとも年内の大量供給は困難であることが告知されました。その一方で、当時すでに成功を収めていた円筒式製品群については、放棄や廃止を意図していないことが明言され、販売店には既存のエジソン蓄音機とエジソン・レコードの拡販継続が求められました。1911年10月は、円筒からディスクへの移行期でありながら、事業の実態としてはなお円筒式が中核であったことを示す月です。

1911年12月発売予定の新譜告知

同号には1911年12月向け新譜の告知も掲載されました。四分シリンダーでは、エジソン・コンサート・バンド(Edison Concert Band)とエジソン・ミクスト・カルテット(Edison Mixed Quartet)によるクリスマス向け楽曲「Ring Out the Bells for Christmas」、エジソン・ライト・オペラ・カンパニー(Edison Light Opera Company)による『軍艦ピナフォア(H.M.S. Pinafore)』抜粋、アメリカン・スタンダード・オーケストラ(American Standard Orchestra)によるワルツなどが並びました。二分シリンダーでも年末商戦向け新譜が告知されており、1911年10月時点でエジソン社が依然として円筒録音の新作供給を継続していたことが分かります。なお、同時期にはハリー・ローダー(Harry Lauder, 生没年不明)の新録音群も併せて案内されていました。

ヘブライ語圏向け付属レコード企画

1911年10月号では、二分機を四分再生対応へ改造するための装置に、ヘブライ語圏需要を意識した特別レコード組を付ける試みも告知されました。これは販売店側から、外国語話者により広く訴求できる組み合わせを求める声が寄せられたことを受けた実験でした。後年の整理では、この企画はヘブライ語圏の利用者向けに販売された一組1ドルの付属セットで、単独売りはされず、他言語向けへ本格拡張された形跡も確認されていません。1911年10月は、エスニック市場への適応を模索した月としても位置づけられます。

「33年前の蓄音機」を振り返る回顧記事

この号には「33年前のエジソン蓄音機」を振り返る記事も掲載され、1878年の実演会資料が紹介されました。そこでは、電話機と蓄音機を組み合わせた公開実演が取り上げられ、エジソン蓄音機(Edison Phonograph)の初期段階がいかに見世物性と技術的驚異を伴って受容されていたかが示されています。1911年10月の録音産業は新譜供給だけでなく、自らの歴史を語り直しながら新時代の装置へ移行しようとしていたことが分かります。