1914年6月に録音された音楽
1914年6月は、政治・社会・文化・災害が同時進行で世界を揺らした月でした。カナダではエスエス・コマガタマル号(S.S. Komagata Maru)の乗客がバンクーバー港で上陸を拒まれ、移民排除政策の象徴的事件として緊張が続きました。メキシコではパンチョ・ビリャ(Pancho Villa, 1878–1923)率いる勢力が6月23日のサカテカスの戦いで勝利し、ビクトリアーノ・ウエルタ(Victoriano Huerta, 1850–1916)政権の崩壊を早めました。アイルランド文学ではジェイムズ・ジョイス(James Joyce, 1882–1941)の短編集『ダブリナーズ』(Dubliners)が1914年6月に刊行され、20世紀文学の重要作として出発しました。アメリカ合衆国マサチューセッツ州では6月25日にセーラム大火(Great Salem Fire of 1914)が発生し、多数の住民が住居と職を失いました。フランスではアレクサンドル・フェリクス・ジョゼフ・リボー(Alexandre Félix Joseph Ribot, 1842–1923)が6月に短期間首相を務め、政局の不安定さが続きました。さらに6月28日、オーストリア=エステ大公フランツ・フェルディナント(Archduke Franz Ferdinand of Austria-Este, 1863–1914)とゾフィー・ホテク(Sophie Chotek, 1868–1914)がサラエヴォで暗殺され、欧州の外交危機は決定的に深まりました。
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1914年6月の録音に関する情報のまとめ
1914年6月の録音業界では、トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)がシリンダーとディスクの両方を維持しながら新譜供給と流通網整備を進め、ヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)は部品使用の統制と特許防衛を強め、コロムビア・グラフォフォン社(Columbia Graphophone Company)はダンス需要に即した録音企画を打ち出していました。さらにパテ・フレール(Pathé Frères)系は北米での販売・製造準備を進めており、1914年6月は主要各社が家庭向け再生機市場とダンス向けレコード市場をそれぞれ強化していたことが確認できます。
エジソン
1914年6月号の『エジソン・フォノグラフ・マンスリー』(Edison Phonograph Monthly)では、トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)がブルー・アンベロール(Blue Amberol)の継続販売を前提に誌面を構成しており、6月用のブルー・アンベロール発売群に加えて、7月25日発売予定の8月補充リストも告知していました。そこでは6人の新規エジソン歌手の登場が強調されており、シリンダー部門が縮小ではなく更新を続けていたことがわかります。別の同時代資料では、1914年6月発売のブルー・アンベロールとして流行歌、重唱、友愛団体向けの儀礼用録音まで確認でき、家庭娯楽だけでなく団体需要にも応えていました。さらに同号では、クリーブランドとシンシナティを拠点とする販売会社「ザ・フォノグラフ・カンパニー」(The Phonograph Company)が、エジソンのディスクとシリンダーの両方を扱う流通拠点として紹介されており、1914年6月時点でトーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)が二つの媒体を並行販売していたことが確認できます。
- https://www.worldradiohistory.com/Archive-All-Audio/Edison-Phonograph/Edison-Phonograph-Monthly-1914-Vol-12.pdf
- https://archive.org/details/edisonphonograph12moor
- https://adp.library.ucsb.edu/index.php/resources/detail/103
ヴィクター
1914年6月15日号の『ザ・トーキング・マシン・ワールド』(The Talking Machine World)では、ヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)が交換用サウンドボックスの販売に際し、その部品をヴィクター機とヴィクター盤にのみ使用するという証明書を購入者と販売店に提出させる方針を報じています。これは、再生部品の流用を防ぎ、機械・レコード・特許を一体で管理しようとする動きでした。同じ号では、トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)を離れたフランク・K・ドルビア(Frank K. Dolbeer, 生没年不明)が1914年7月1日付でヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)に加わることも報じられており、1914年6月の時点で同社が人材面でも競争力を高めていたことが確認できます。また同号には、トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)に対する特許訴訟告知も掲載されており、ヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)が録音機器市場の主導権維持を強く意識していたことが明瞭です。
コロムビア
同じ1914年6月15日号の『ザ・トーキング・マシン・ワールド』(The Talking Machine World)では、コロムビア・グラフォフォン社(Columbia Graphophone Company)がジョーン・ソーヤー(Joan Sawyer, 生没年不明)と契約し、特別ダンス・レコード・シリーズを監修させると報じています。記事によれば、パーシアン・ガーデン・オーケストラ(Persian Garden Orchestra)による録音はすでに進んでおり、当月の時点で trade 向け発送も始まっていました。さらに同号には、コロムビア・グラフォフォン社(Columbia Graphophone Company)が「4種のダンス教習レコード」を夏の販売促進材料として押し出していたこと、トロントでは教育向け実演も進めていたことが見えます。1914年6月の同社は、単なる新譜供給だけでなく、社交ダンスと教育実演の両面から市場を広げようとしていたと整理できます。
パテ
1914年6月15日号の『ザ・トーキング・マシン・ワールド』(The Talking Machine World)では、パテ・フレール(Pathé Frères)がカナダで特別代表者を置き、オンタリオ州でパテフォン(Pathéphone)とパテ・ディスク(Pathé disc)の流通体制を整えようとしていたことが報じられています。記事では、州ごとの卸売代理店設置を目指していたこと、さらにアメリカ合衆国内でもニューヨークに新拠点を構え、録音室とショールームを維持しながら、ブルックリンでのプレス工場設置を準備していたことが確認できます。したがって1914年6月のパテ・フレール(Pathé Frères)系は、北米で本格販売に入る直前段階にあり、流通・録音・製造の三つを同時に立ち上げていたと見るのが妥当です。ただし、この資料だけでは1914年6月当月の具体的発売点数までは確認できません。
