1915年に録音された音楽
1915年は、第一次世界大戦(World War I, 1914–1918)が「短期決戦の破綻」から「長期戦の総力戦」へと完全に移行し、戦場の技術・外交の論理・民間社会の枠組みが同時に変形していく年です。西部戦線ではイーペル周辺の戦闘で毒ガスが大規模に用いられ、兵器の進化が前線の倫理と日常を侵食していきます。地中海ではガリポリの戦い(Gallipoli campaign)で、1915年4月25日の上陸が作戦全体の象徴的な起点となりました。一方、オスマン帝国内では1915年4月24日のコンスタンティノープルにおけるアルメニア人指導層の拘束・追放を節目として、アルメニア人ジェノサイド(Armenian genocide)と呼ばれる迫害が本格化し、戦争が「軍と国家」だけでなく「住民そのもの」を巻き込む現実を突き付けました。
外交地図も大きく塗り替えられます。ロンドン条約(Treaty of London, 1915年4月26日)の秘密合意を経てイタリア王国(Kingdom of Italy)は1915年5月23日にオーストリア=ハンガリー帝国(Austria-Hungary)へ宣戦し、新たな戦線を生みました。さらに1915年10月にはブルガリア王国(Kingdom of Bulgaria)が参戦し、バルカンの均衡が再編されます。東アジアでは日本国(Japan)が中国(China)に対して「対華二十一か条要求(Twenty-One Demands)」を1915年1月18日に提示し、列強秩序の亀裂と地域覇権の圧力が可視化されました。こうした動きは、戦争がヨーロッパの塹壕だけで完結せず、世界規模の利害調整と主権の綱引きとして進行していたことを示します。
同時に、社会の側でも「誰が政治共同体の一員か」をめぐる再定義が進みます。デンマーク王国(Kingdom of Denmark)では1915年6月5日の憲法改正で女性参政権が明確化されました。さらにオランダ・ハーグ(The Hague)では1915年4月28日–5月1日に国際女性会議(International Congress of Women, 1915)が開催され、交戦国・中立国双方からの参加者が恒久平和と国際協調を掲げ、戦時下の「市民による国際政治」の可能性を探りました。戦争が国家を硬直化させる一方で、権利拡張と越境的な平和運動が同時に現れた点が、1915年の矛盾を際立たせます。
科学技術とメディアも、距離感と同時性を更新します。1915年1月25日、アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell, 1847–1922)とトーマス・A・ワトソン(Thomas Augustus Watson, 1854–1934)らを含む米大陸横断電話の式典は、「声が大陸を横断する」体験を象徴化しました。サンフランシスコではパナマ太平洋万国博覧会(Panama-Pacific International Exposition, 1915年2月20日–12月4日)が開催され、戦時下でも技術と消費文化のショーケースが成立し得ることを示します。理論科学ではアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879–1955)が1915年11月25日に一般相対性理論(general theory of relativity)の重力場方程式を公表し、世界像の基礎を更新しました。大衆文化の側では、デーヴィッド・W・グリフィス(David Wark Griffith, 1875–1948)の『國民の創生(The Birth of a Nation, 1915)』が1915年2月8日にロサンゼルスで公開され、映画表現の革新と同時に、人種主義的表象をめぐる激しい批判も招きました。戦争と技術の加速が、「情報が届く速度」と「物語が人を動かす力」を拡張し、その基盤の上で録音・映像・報道などの近代メディア環境がいっそう現実政治に接続していく年でもありました。
