1914年10月に録音された音楽

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1914年10月に録音された音楽

1914年10月は、第一次世界大戦(World War I)の戦線拡大が世界秩序を大きく揺さぶった月でした。ベルギーではアントウェルペン包囲戦(Siege of Antwerp)が10月10日に終結し、ドイツ軍の占領によって西部戦線の圧力はいっそう強まりました。19日には第一次イーペル会戦(First Battle of Ypres)が始まり、短期決戦の期待はさらに後退して、西部戦線は長期の塹壕戦へと固着していきます。アメリカ合衆国では10月15日にクレイトン反トラスト法(Clayton Antitrust Act)が成立し、独占規制と労働をめぐる連邦法制が補強されました。メキシコでは10日にアグアスカリエンテス会議(Convention of Aguascalientes)が始まり、革命諸派の統一と政権再編が模索されました。さらに10月29日–30日にはオスマン帝国(Ottoman Empire)の艦隊がオデッサなどロシアの港湾を砲撃し、黒海方面も本格的な戦域へと変わりました。戦争の激化、国家制度の整備、革命政局の再編が同時進行した月でした。

この月の確認されている録音:0曲

1914年10月の録音に関する情報のまとめ

1914年10月の同時代業界資料で具体的な活動を確認できたのは、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)系、ヴィクター・トーキング・マシン・カンパニー(Victor Talking Machine Company)、コロンビア・グラフォフォン・カンパニー(Columbia Graphophone Company)、パテ・フレール・フォノグラフ・カンパニー(Pathé Frères Phonograph Company)です。確認できる範囲では、この月は円筒とディスクが並行して動きつつ、特にダンス需要と高級機の販促が業界紙上で強く押し出されていました。当月資料上で直接の活動を十分確認できなかった企業については、ここでは見出しを立てません。

エジソン

『Edison Phonograph Monthly』1914年10月号では、エジソンの販売拡張がなお強い勢いで続いていたことが確認できます。同号には、マサチューセッツ州ローウェル向けのエジソン・ダイヤモンド・ディスク蓄音機一車積みの写真付き記事が掲載され、評価額は8,300.92ドル、同販売店ではすでに13,000ドル超を売り捌いていたと記されています。1914年10月時点のエジソンは、ブルー・アンベロールとダイヤモンド・ディスクを並行させながら、とくに高価格帯ディスク機の大量出荷と地方販売網の強化を進めていたとみられます。

ヴィクター

『The Talking Machine World』1914年10月号の「Record Bulletins for November, 1914」では、ヴィクター・トーキング・マシン・カンパニー(Victor Talking Machine Company)がダンス向け新譜を前面に出していたことが確認できます。12インチ盤では、マッキーズ・ソサイエティ・オーケストラ(McKee’s Society Orchestra)、ヴァン・エプス・トリオ(Van Eps Trio)、ヴィクター・ミリタリー・バンド(Victor Military Band)によるワルツ、フォックス・トロット、ワンステップが並び、1914年10月の段階で同社が社交ダンス市場を強く意識して商品編成していたことがわかります。

コロンビア

同じく『The Talking Machine World』1914年10月号では、コロンビア・グラフォフォン・カンパニー(Columbia Graphophone Company)が、サンフランシスコ博覧会関連の懸賞曲「1915-San Francisco」をレコード化する計画を進め、どの専属歌手で吹き込むべきか公衆の意見を募っていたことが報じられています。また11月向け新譜欄では、ハワイアン曲、ピアノ独奏、吹奏楽、ダンス曲を含むシンフォニー・ダブルディスクおよび通常のダブルディスクが並び、当月のコロンビアが話題曲とダンス商品を組み合わせて市場を押していたことが確認できます。

パテ

パテ・フレール・フォノグラフ・カンパニー(Pathé Frères Phonograph Company)は、『The Talking Machine World』1914年10月号の広告で、パテフォンとパテ・ダブルディスクを「最新ダンス・レコードの大きな品揃え」として訴求していました。価格帯は0.75ドルから4.00ドルまで示され、機種ではモデル50を50ドルで掲げており、1914年10月の段階で同社がダンス用途と中上位価格帯の商品を軸に販促していたことがわかります。