1921年に録音された音楽
1921年は、第一次世界大戦後の国際秩序が「条約で引き直される」一方で、国家と社会の内部でも境界線が制度と暴力によって再編された年でした。東欧ではリガ条約(Treaty of Riga)が1921年3月18日にラトビアのリガで調印され、ポーランド・ソビエト戦争(1919–1921)が終結します。条約はポーランドとソビエト側(ロシアがベラルーシを代表し、加えてソビエト・ウクライナ)との和平として国境を定め、結果として多くのウクライナ人・ベラルーシ人が第二ポーランド共和国の側に含まれる形になりました。戦争を終わらせる合意は、同時に「誰がどの国家に属するのか」という問題を、線で切り分けて残すことにもなります。条約は26条から成る和平条約で、領土・国籍選択・賠償や文化財返還など多岐にわたる取り決めを含みました。
ロシアでは、内戦と総動員体制の疲弊を受けて、ウラジーミル・レーニン(Vladimir Lenin, 1870–1924)が新経済政策(New Economic Policy, NEP)を1921年に提起し、1921年3月の第10回党大会の過程で採択されます。1921年3月21日の法令では、農産物の強制徴発(prodrazvyorstka)を税(prodnalog)に置き換える措置が打ち出され、国家が大産業・銀行・対外貿易を握る一方で、小規模私企業や市場取引の余地を認める混合経済が制度化されました。いわゆる「NEPマン(NEPmen)」と呼ばれる新興商人層が登場するなど、革命期の理念と生活再建の現実がせめぎ合う局面でもありました。
同年末には、ワシントンで軍備制限会議(Conference on the Limitation of Armament)が1921年11月12日–1922年2月6日の日程で開催され、太平洋地域の「島嶼領有や属領」をめぐる取り決めを含む枠組みが交渉されます。戦争の拡大を抑えるという理念の下で、列強間の調整が会議外交として可視化された一方、その調整は既存の帝国圏と権益を前提にしたもので、平和の設計図と同時に世界の不均衡を映す鏡にもなりました。
社会史の側面では、米国で排外と人種暴力が同時に顕在化します。ウォレン・G・ハーディング(Warren G. Harding, 1865–1923)の政権下で緊急割当法(Emergency Quota Act of 1921)が1921年5月19日に成立し、原則として「1910年国勢調査における当該国出身者数の3%」を上限とする国籍別割当が導入されました。これは米国史上、移民数に数値上限を課す連邦レベルの枠組みとして重要な転換点です。さらに1921年5月31日–6月1日、オクラホマ州タルサでタルサ人種虐殺(Tulsa race massacre)が起き、繁栄していたグリーンウッド地区が大規模に破壊され、多数の犠牲者を出しました。記憶の政治という点では、無名戦士の墓(Tomb of the Unknown Soldier, Arlington National Cemetery)において1921年11月11日に第一次世界大戦の身元不明兵士が埋葬され、国家が喪と奉仕を象徴化する場が定着していきました。
一方で、科学は人類の生存条件を直接に変える成果を生みます。医学ではフレデリック・バンティング(Frederick Banting, 1891–1941)とチャールズ・ベスト(Charles Best, 1899–1978)がトロント大学で1921年にインスリンの研究を進め、1921年5月17日に犬の膵臓切除実験を行うなど実験が本格化しました。ジョン・マクラウド(John Macleod, 1876–1935)の下で研究体制が整い、ジェームズ・コリップ(James Collip, 1892–1965)が精製に寄与したことで、糖尿病治療を根底から変える道筋が開かれます。物理学ではアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879–1955)が光電効果の法則の発見により1921年ノーベル物理学賞を受賞し、理論物理学の成果が世界的な権威として共有されます。こうして1921年は、外交・経済・社会・科学が同じ時間のなかでせめぎ合い、戦後世界が次の時代へと形を変えていく過程を濃密に刻んだ一年でした。こうした変化は、政治体制の選択や人の移動だけでなく、知識・ニュース・音のような文化資源がどの速度で広がるかという条件にも影を落としました。翌年以降の景気循環、国際関係、そして大衆文化の拡大は、この年に残った線引きと実験の上に積み重なっていきます。
