Franz Xaver Scharwenka (1850–1924)
Franz Xaver Scharwenka (フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカ)は、1850年1月6日、ポーランドのシュフノフ(当時はプロイセン領、現ポーランドのシュフヌヴォ)に生まれました(Grove Music Online)。家族は音楽好きで、兄弟のフィリップ・シャルヴェンカも作曲家として知られています。幼少期からピアノに親しみ、ドイツ・ポーランド文化圏の民族舞曲や民謡に触れて育ったことが、後の「ポーランド舞曲」に色濃く表れています。15歳の頃に家族とともにベルリンへ移住し、名門 Neue Akademie der Tonkunst(ケーニヒスベルク音楽院の前身)で音楽理論とピアノを学びました。在学中から演奏家として注目され、若くしてドイツ国内外の演奏旅行を始めます。シャルヴェンカは当時のベルリンの音楽界で高く評価され、リスト派のピアニストとして技巧派演奏家の仲間入りを果たしました(Hinson 2001)。
The Musical Courier, Public domain, via Wikimedia Commons
「ポーランド舞曲」など代表作品と演奏活動
シャルヴェンカは演奏家としてだけでなく、作曲家としても多くのサロン小品、協奏曲、室内楽を残しました。中でも最も知られているのが《ポーランド舞曲(Polnische Tänze)》の連作です。彼の Op.3 に含まれる第1番 変ホ短調は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてピアニストのアンコール・ピースとして世界中で演奏されました(IMSLP, Grove Music Online)。リズミカルで力強い序奏、ポーランドの mazurka に影響を受けた跳躍的な主題、そして技巧的なパッセージが聴衆を惹きつけ、短くも印象的な作品として定番化しました。また、ピアノ協奏曲第1番(Op.32)もシャルヴェンカの大作として知られ、当時のピアノ界においてはリスト、パデレフスキと並んで演奏会で取り上げられました。彼はヨーロッパのみならず、19世紀末に数回アメリカ演奏旅行を行い、ニューヨークやボストンで好評を博しました(Hinson 2001, Britannica)。
音楽教育と後世への影響
シャルヴェンカは演奏・作曲活動と並行して音楽教育にも熱心に取り組みました。1881年、ベルリンに自身のピアノ学校を設立し、多くの若手ピアニストを育てました。この学校は「Scharwenka-Konservatorium」と呼ばれ、のちにカール・クライスラーなど著名な音楽家とも関わりを持ちました。1903年にはニューヨークにも分校を開き、欧州音楽教育の方法をアメリカに紹介しました。彼の教本や指導法はリスト派ピアニズムの伝統を現代的に応用したもので、20世紀前半のピアノ教育にも影響を与えました。1924年12月8日、ベルリンで死去。今日では、演奏会で取り上げられる機会は減りましたが、録音史やサロン音楽史の研究では、ポーランド舞曲が19世紀の民族主義音楽の潮流の一例としてしばしば取り上げられます。また、20世紀初頭の録音黎明期には、彼の舞曲が蝋円筒やSP盤で繰り返し録音され、初期録音メディアに残された貴重なサロンレパートリーとして再評価されています(Feaster 2007)。
リストとの「即興レッスン」
シャルヴェンカは若い頃、フランツ・リストの弟子筋にあたるピアニストでしたが、実際にリスト本人にも接する機会がありました。ベルリンで演奏活動をしていた頃、シャルヴェンカはリストを訪問し、リストの前で自作のピアノ曲を弾きながら即興的に編曲を加えて見せたと言われています(Hinson 2001)。リストはこの即興力に感心し、演奏の最中に突然「ここはもっと自由に弾きなさい!」と声をかけ、シャルヴェンカの腕前を即興的にチェックしたそうです。この体験は後にシャルヴェンカの教育方針に活かされ、ベルリン音楽院の授業でも「即興力と楽譜読解はセットだ」という考えを徹底させました。
ニューヨーク校設立をめぐる逸話
シャルヴェンカはベルリンに自分の音楽学校を創設しただけでなく、1903年にはニューヨークにも分校を開きました。このとき、弟フィリップとともに渡米した際、当初はニューヨークの土地勘がほとんどなく、マンハッタンの中心部ではなく住宅街に仮校舎を構えたところ、入学生が想定より少なかったという記録があります(Britannica)。その後、有力な音楽後援者の助言で校舎を中心街に移し、有名なピアニストの弟子が多数集まり、結果的に学校は成功しました。この「立地選びの失敗談」は、当時のドイツ人音楽家がアメリカで奮闘した例として面白く語り継がれています。
「ポーランド舞曲」で不意打ちアンコール
彼の代表作「ポーランド舞曲 第1番」は、演奏会のアンコールでしばしば演奏されました。ある演奏会では、予定の曲目が終わった後に客席から何度もアンコールが求められたため、疲れていたシャルヴェンカが「もう新しい曲は弾けない」と言いながらも、「ならば!」と即興で「ポーランド舞曲」を少し変形して弾いたと言われています(Hinson 2001)。これが大変な喝采を浴び、以来アンコール定番として固定化したというエピソードが残っています。
