1905年に録音された音楽
1905年は、戦争と革命、そして「大衆の時代」を押し進める技術と文化が、同時多発的にうねった年です。国際政治では、日露戦争(Russo–Japanese War, 1904–1905)が佳境を迎え、対馬海峡海戦(Battle of Tsushima, 1905年5月27–28日)は近代的な鋼鉄戦艦艦隊同士の決戦として強烈な印象を残しました。講和はポーツマス条約(Treaty of Portsmouth, 1905年9月5日)で結ばれ、南満洲と朝鮮半島をめぐる勢力配置が大きく再編されます。朝鮮では第二次日韓協約(Japan–Korea Treaty of 1905, 1905年11月17日、いわゆる「乙巳条約」)が結ばれ、東アジアの主権と外交のあり方をめぐる緊張が固定化していきます。
一方、帝政ロシアは対外戦争の負荷と社会矛盾が噴き出し、血の日曜日(Bloody Sunday, 1905年1月22日)を契機に全国的な蜂起とストライキの波が広がりました。10月には十月詔書(October Manifesto, 1905年10月30日)が出され、議会制や市民的自由の約束が掲げられますが、同年を通じた混乱は帝国の統治基盤そのものを揺さぶりました。戦艦ポチョムキン反乱(Potemkin Mutiny, 1905年6月27日)も、軍隊内部の不満が臨界点に達していたことを象徴します。こうした「動員国家」のひずみは、労働運動の国際的な再編とも共鳴し、アメリカではインダストリアル・ワーカーズ・オブ・ザ・ワールド(Industrial Workers of the World, 1905年6月27日)が結成され、産業社会の労働と権利をめぐる言語が更新されます。
ヨーロッパでは、国家のかたちそのものが静かに組み替えられました。ノルウェーはスウェーデンとの連合解消(Dissolution of the union between Norway and Sweden, 1905年6月7日)を宣言し、国民投票(Norwegian union dissolution referendum, 1905年8月13日)で独立支持が圧倒的多数となり、独立承認(Dissolution of the union between Norway and Sweden, 1905年10月26日)へと至ります。フランスでは1905年政教分離法(Law of 9 December 1905 on the Separation of Churches and State, 1905年12月9日)が成立し、宗教と国家の距離を制度として定義し直しました。同時に、帝国主義的競合も緊張を高め、第一次モロッコ事件(First Moroccan Crisis, 1905–1906)は列強の同盟関係を試す危機となります。英領インドではベンガル分割(Partition of Bengal, 1905年10月16日)が実施され、植民地統治の行政合理化が、民族運動の高揚と衝突しうることを示しました。中東でも、イラン(当時ペルシア)で立憲運動(Persian Constitutional Revolution, 1905–1911)へ連なる抗議が拡大し、政治参加と統治の再設計が焦点化していきます。
科学と文化は、社会の速度をさらに上げました。アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879–1955)は1905年に複数の論文を発表し、光電効果、ブラウン運動、特殊相対性理論、質量とエネルギーの等価など、20世紀物理学の骨格を一気に押し広げます。芸術では、サロン・ドートンヌ(Salon d’Automne, 1905年)で「フォーヴ(Fauves)」という呼称が定着し、色彩と感覚の過激な更新が可視化されました。娯楽の側では、ピッツバーグで最初期の常設映画館とされるニッケロデオン(Nickelodeon, 1905年6月19日開業)が登場し、短時間・低料金で反復的に体験できる視覚娯楽が都市の回路に組み込まれていきます。録音・再生技術が家庭と街の消費文化に浸透していく流れは、こうした映像興行や大衆雑誌、広告、労働時間の再編と同じ地平で加速していきました。さらに、ベルタ・フォン・ズットナー(Bertha von Suttner, 1843–1914)が1905年のノーベル平和賞(Nobel Peace Prize, 1905)を受賞し、戦争の時代に対抗する理念の国際化も進みます。
