1918年に録音された音楽

この記事は約3分で読めます。
スポンサーリンク

1918年に録音された音楽

1918年は、総力戦が「停戦」へ収束しつつ、疫病と社会不安が同時進行で噴き出した年でした。第一次世界大戦では、ロシアが中央同盟国とのブレスト=リトフスク条約(Treaty of Brest-Litovsk)により戦線から離脱し、欧州の力学が大きく組み替えられます。アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson, 1856–1924)は「十四か条(Fourteen Points)」を掲げ、秘密外交の否定や民族自決、国際連盟(League of Nations)構想を含む戦後秩序の青写真を提示しました。

西部戦線では1918年春の攻勢が終盤を迎え、連合国は「百日攻勢(Hundred Days Offensive)」へ転じます。8月8日のアミアンの戦い(Battle of Amiens, 1918)は戦車と航空機を組み合わせた機動戦の成果が顕著で、ドイツ軍上級指導者エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff, 1865–1937)が同日を「ドイツ軍の黒い日」と呼んだことでも知られます。さらに9月末以降、ブルガリア、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリー帝国が相次いで停戦し、11月11日のコンピエーニュ停戦協定(Armistice of 11 November 1918)でドイツとの戦闘が停止しました。

戦争の終結は「平和」の即時回復ではなく、帝国の解体と国家の再編を伴いました。ドイツでは11月9日に共和政が宣言され、皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II, 1859–1941)の退位が告げられます。中東ではムドロス休戦協定(Armistice of Mudros)によりオスマン帝国が戦争から離脱し、バルカンでは12月1日にセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)が成立します。ポーランドは11月11日を独立回復の日として位置付け、ヨゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski, 1867–1935)が軍の指揮を担う象徴となりました。

同時に、1918年–1919年のインフルエンザ・パンデミック(いわゆるスペインかぜ)は、前線と銃後の境界を曖昧にし、世界規模の死者数が戦争による死者推計を上回る規模とされるほどの被害を残しました。世界人口の約3分の1に当たる約5億人が感染したと推定され、世界の死者は少なくとも5,000万人規模と見積もられています。感染の急拡大は1918年秋に集中し、都市の集会・学校・娯楽の閉鎖や医療体制の逼迫が各地で起きました。

社会の側では、戦時動員と物価高騰が抗議運動を促し、政治制度も揺れました。イギリスでは1918年の人民代表法(Representation of the People Act 1918)により、男性普通選挙の拡大とともに、一定条件下で30歳以上の女性に参政権が認められます。日本では米価高騰を背景に米騒動(1918年7月–9月)が全国へ拡大し、寺内正毅内閣の退陣と原敬内閣の成立へつながりました。さらにシベリア出兵(Siberian Intervention)の開始は、ロシア内戦と戦後秩序の不安定さが東アジアにも波及していたことを示します。

この年の変化は、音楽や録音メディアにも直接響きました。4月1日にロイヤル・エア・フォース(Royal Air Force)が創設され、空の技術が国家の制度に組み込まれていく一方で、パンデミックはレコード産業・販売網・興行に打撃を与え、トーキング・マシン/レコードの業界全体が影響を受けたと記録されています。録音面では、ジャズやダンス音楽の録音が行われ、オリジナル・ディキシーランド・ジャス・バンド(Original Dixieland Jass Band)による1918年録音として記録されている曲目も複数確認できます