1935年に録音された音楽
1935年は、世界恐慌後の回復が各地で進む一方で、国際秩序の「止め具」がゆるみ、再軍備と帝国主義が現実の戦争へと転化していった年です。対立は外交会議や条約の文言の内側で一見「管理」されているように見えながら、実際には次の大戦へ向かう力学が加速していきました。
欧州では、1月13日のザール住民投票でザールがドイツへ復帰することが決まり、国際連盟(League of Nations)の委任統治が終わります。続く4月、イギリス・フランス・イタリアはストレーザ戦線(Stresa Front)を形成してドイツの再軍備に対抗する姿勢を示しましたが、6月18日の英独海軍協定(Anglo-German Naval Agreement)は協調のほころびを露呈させました。9月15日には、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889–1945)政権下のドイツでニュルンベルク法(Nuremberg Laws)が制定され、国家が人種分類を法制度に埋め込む段階へ踏み込みます。
同時に、集団安全保障の限界は戦場で可視化されます。10月、ベニト・ムッソリーニ(Benito Mussolini, 1883–1945)率いるイタリアがエチオピアへ侵攻し、第二次エチオピア戦争(Italo-Ethiopian War, 1935–1936)が始まりました。国際連盟は制裁に動いたものの、12月には英外相サミュエル・ホーア(Samuel Hoare, 1880–1959)と仏首相ピエール・ラヴァル(Pierre Laval, 1883–1945)が、戦争終結と引き換えにエチオピア領の大部分をイタリアへ与える秘密案(ホーア=ラヴァル案)を策定し、漏洩による強い非難で破綻します。侵略を抑止する制度が「大国の意思」に依存している現実が、ここで痛烈に示されました。
帝国の枠組みを再設計する動きも進みます。8月2日にはイギリスで「インド統治法1935年(Government of India Act, 1935)」が制定され、英領インドの統治制度に大きな改編が加えられました。11月15日にはフィリピンでフィリピン・コモンウェルス(Commonwealth of the Philippines)が発足し、マヌエル・L・ケソン(Manuel L. Quezon, 1878–1944)が大統領に就任、セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmeña, 1878–1961)が副大統領となります。列強の支配構造が揺れる局面で、自治・独立へ向かう制度整備もまた同時進行していました。
社会政策の面では、国家が「生活の下支え」を制度化しようとする試みが目立ちます。アメリカ合衆国では5月6日にワークス・プログレス・アドミニストレーション(Works Progress Administration)が発足し、7月5日に全国労働関係法(National Labor Relations Act, Wagner Act)が署名、8月14日には社会保障法(Social Security Act)が成立して、雇用・労働・老後という近代社会の土台を組み直しました。ただし8月31日には中立法(Neutrality Act of 1935)が制定され、対外危機が高まる中でも介入回避を制度として固める動きが確認できます。
メディアと技術も、同時代の政治や大衆文化を増幅させる基盤を整えます。ドイツでは3月22日から定期テレビ番組が始まり、同時視聴の回路が新たに組み込まれていきました。こうした通信・放送の拡張は、政治宣伝にも娯楽にも等しく利用され得る「器」として、1930年代後半の空気をさらに濃くしていきます。1935年の出来事群は、制度(法と行政)、国際秩序(協定と連盟)、そしてメディア(放送)の三層が互いに影響し合いながら、世界を次の断層へ押し進めていったことを示しています。
