1951年に録音された音楽

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1951年に録音された音楽

1951年は、第二次世界大戦後の再建が進む一方で、冷戦の対立が世界の制度や日常のメディア体験まで染み込んでいった年でした。朝鮮半島では朝鮮戦争(Korean War)が長期化し、1951年4月11日にアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman, 1884–1972)がダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880–1964)を指揮官から解任したことは、戦争の指揮をめぐる政治判断として国際的な注目を集めました。戦線が膠着するなか、夏には国際連合軍司令部(United Nations Command)と相手側の間で停戦交渉が始まり、戦闘と交渉が並行する局面へ移っていきます。武力衝突と人口移動の現実を背景に、国際連合難民高等弁務官事務所(Office of the United Nations High Commissioner for Refugees)が1951年から活動を開始し、7月28日には難民の地位に関する条約(Convention Relating to the Status of Refugees)が採択されました。欧州では、4月18日に欧州石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community)を設立する欧州石炭鉄鋼共同体を設立する条約(Treaty establishing the European Coal and Steel Community)が調印され、石炭と鉄鋼という戦争の基盤でもあった資源を共同管理へ転換する枠組みが生まれました。

資源をめぐる主権の主張は中東でも先鋭化し、イランでは1951年3月に石油産業の国有化が法制化され、モハンマド・モサデグ(Mohammad Mosaddegh, 1880–1967)の政権下で実施に移され、国際問題へ発展しました。アジア太平洋では、9月8日に日本国との平和条約(Treaty of Peace with Japan)が調印され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(Security Treaty between the United States and Japan)も結ばれました。占領から主権回復へ向かう手続と安全保障の枠組みが同時に定められ、戦後の地域秩序と交流の前提が組み替えられていきます。12月24日にはリビア連合王国(United Kingdom of Libya)が独立を宣言し、脱植民地化の潮流が北アフリカにも及んだことを示しました。

政治の再編と並行して、音楽と娯楽を流通させるメディアの装置も姿を変えます。イタリアでは1月29日–31日にサンレモ音楽祭(Sanremo Music Festival)の第1回が開催され、歌の競技と放送が結び付く形式が大衆音楽の発信力を増していきました。アメリカ合衆国では10月15日にコロンビア放送システム(Columbia Broadcasting System)でアイ・ラブ・ルーシー(I Love Lucy)の放送が始まり、家庭のリビングが新たな舞台となるテレビ時代の空気を決定づけます。情報処理の世界では、アメリカ合衆国国勢調査局(United States Census Bureau)が電子計算機ユニバックI(UNIVAC I)を導入し、1951年3月31日の契約と6月14日の献呈式が象徴するように、統計と行政の機械化が加速しました。エネルギー分野では実験増殖炉第1号(Experimental Breeder Reactor I)が12月20日に原子力による発電を実証し、科学技術が国家と産業の想像力を再編していきます。さらに国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)の1951年12月パリ会合では、欧州原子核研究評議会(European Council for Nuclear Research)設立に向けた最初の決議が採択され、国境を越える大型研究の構想が具体化し始めました。こうした戦争・条約・独立・計算・放送が同時進行した1951年は、音楽が国や地域の枠を越えて広がるための政治的・技術的な足場が固められていった年でもありました。