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1890年9月に録音された音楽

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1890年9月に録音された音楽

1890年9月は、プラハで1890年洪水(9月2–5日、カレル橋=Charles Bridgeが大きく損傷)が起き、英領南アフリカ会社の進出でフォート・ソールズベリー(後のハラレ)が建設(9月12日、翌13日に旗掲揚)され、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul)が日本近海で遭難(9月18日)する一方、米国では宝くじ関連物の郵便流通を禁じる法(9月19日成立)が強化され、セコイア国立公園(Sequoia National Park)が創設(9月25日)され、末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)が複婚の新規実施停止を勧告する「1890年マニフェスト(Manifesto)」(9月25日公表)を出し、エチオピアのメネリク2世(Menelik II, 1844–1913)がイタリアの保護国化主張を拒否(1890年9月)し、文化・スポーツ面ではボヘミアンFC(Bohemian F.C., 9月6日創設)や劇作家ディオン・ボウシコー(Dion Boucicault, 1820–1890, 9月18日没)、推理作家アガサ・クリスティ(Agatha Christie, 1890–1976, 9月15日生)とデザイナーのエルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli, 1890–1973, 9月10日生)などが重なった月でした。

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1890年9月の録音に関する情報のまとめ

1890年9月の録音まわりの動きは、個々の「録音日」が一次資料で明示されにくい一方、シリンダー録音を支える“部材・量産・展示運用(コイン投入式)”や、それを下支えする特許・書簡が月単位で追える時期です。ここでは、1890年9月に日付が固定できる一次資料(特許公報・企業書簡)と、同月に具体化した商業展示の動きを、録音史の文脈で拾い上げます。

フォノグラフ特許関連(1890年9月30日付の一括成立)

1890年9月30日、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)名義で、Phonograph/Phonograph-Recorder/Method of Making Phonogram-Blanks/Phonogram-Blank など複数の特許が同日に成立し、機械・媒体・複製の“量産の前提”がまとめて制度化されました。録音内容そのものより、録音を安定して供給・運用する土台(ブランク品質、機構標準化)を固める意図が強いことが読み取れます。

グラフォフォン特許(録音・再生ヘッドの位置合わせ、1890年9月16日)

1890年9月16日付のUS436576Aは、ジョセフ・ダニエルズ(Joseph Daniels, 生没年不詳)が「録音器(recorder)と再生器(reproducer)を同一ブラケットに常設し、両者の相対位置を常に維持する」構造を狙ったグラフォフォン改良です。“録音した溝に、再生針が確実に戻れる”ことはシリンダー運用の根幹なので、当時の現場(展示・業務)での取り回しと事故(シリンダー損傷)を減らす方向の改良として重要です。

フォノグラフ・パーラーの開業(クリーブランド、1890年9月15日)

1890年9月15日、オハイオ・フォノグラフ・カンパニー(Ohio Phonograph Company)がクリーブランドで“フォノグラフ・パーラー”を開業したとされ、壁沿いに試聴機を並べて耳管(ヘッドホン的なもの)で聴かせる形態が言及されています。これは「録音=研究室や事務用途」から、「録音=娯楽としての反復再生・回転率ビジネス」へ寄っていく転換点の一コマとして扱えます。

材料(セルロース等)と品質管理の課題(1890年9月15日)

1890年9月15日付で、ノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー(North American Phonograph Co)のトーマス・R・ロンバード(Thomas R. Lombard, 生没年不詳)からエジソン宛に、テスト/品質管理と、セルロース・樹脂・ゴム等の材料トピックを含む書簡が残っています。“記録媒体や周辺部材の品質が揺れると、録音も再生も揺れる”ので、録音そのものの派手さはなくても、録音ビジネスの地味な生命線がここに出ています。

地域子会社の販売・保守とテスト(1890年9月15日)

同じ1890年9月15日付で、イースタン・ペンシルベニア・フォノグラフ・カンパニー(Eastern Pennsylvania Phonograph Co)のジェームズ・オグルヴィー・クレファン(James Ogilvie Clephane, 生没年不詳)から、アルフレッド・オード・テイト(Alfred Ord Tate, 生没年不詳)宛に、販売・サービスとテスト/品質管理、シリンダー機の運用に触れる書簡があります。録音が“作品”である以前に“運用”であること(壊れない、揃う、回る)を、地域網で支えようとしていた実務の痕跡として使えます。

自動販売・展示向けの量産調整(1890年9月23日)

1890年9月23日、エジソン・マニュファクチャリング・カンパニー(Edison Manufacturing Co)から、オートマティック・フォノグラフ・エキシビション・カンパニー(Automatic Phonograph Exhibition Co)のフェリックス・ゴットシャルク(Felix Gottschalk, 生没年不詳)宛に、「製造上の困難と調整」「電池」「シリンダー・フォノグラフ」を主題にした書簡が出ています。コイン投入式展示の現場は“電池がへたる=音が死ぬ”ので、録音史としては「録音を流通させるインフラの弱点」が一次資料に刻まれた例として拾えます。

トーキング・ドール事業と録音メディアの“商品化”(1890年9月6日)

1890年9月6日付で、テイトからノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー(North American Phonograph Co)のジェシー・H・リッピンコット(Jesse H. Lippincott, 1842-1894)らに宛てた書簡があり、契約・法務・財務の論点の中にトーキング・ドール(Talking doll)が含まれています。トーキング・ドールは「小型シリンダーに“声(短い録音)”を固定して売る」という商品形態を前に進め、録音メディアが“単体商品”として扱われる回路を太くしていきます。