1891年5月に録音された音楽

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1891年5月に録音された音楽

1891年5月は、社会問題と近代文化、そして国際関係が同時に動いた月でした。5月15日、ローマ教皇レオ13世(Leo XIII, 1810–1903)が回勅レールム・ノヴァルム(Rerum novarum)を公表し、資本と労働の関係や労働者の権利をめぐる議論に大きな枠組みを与えました。日本では5月11日、ロシア帝国皇太子ニコライ2世(Nicholas II, 1868–1918)が滋賀県大津で津田三蔵に襲撃され、国際的緊張が高まります。一方、ロシア帝国ではシベリア横断鉄道(Trans-Siberian Railway)の建設開始がウラジオストクで宣言され、広域交通の構想が具体化しました。音楽面では5月5日、カーネギー・ホール(Carnegie Hall)が開場し、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky, 1840–1893)が関わる演奏会が大きな話題となりました。

この月の確認されている録音:0曲

1891年5月の録音に関する情報のまとめ

1891年5月の「録音」は、現在のように録音物そのものが大量流通する段階というより、蝋管(ワックス・シリンダー)を中心とした「フォノグラム(録音済みシリンダー)」が見世物・巡業・商業カタログの形で広がり、同時に特許やライセンスをめぐる企業間調整が進む局面として確認できます。円盤式の装置も存在しましたが、商業的な円盤レコードの本格展開はもう少し後の時期に位置づけられます。

グラフォフォン陣営の契約と特許権調整

1891年5月2日付の資料として、ジェシー・H・リッピンコット(Jesse H. Lippincott, 生没年不明)とフレデリック・S・ウェイト(Frederick S. Wait, 生没年不明)による契約文書が、アメリカン・グラフォフォン・カンパニー(American Graphophone Co)およびノース・アメリカン・フォノグラフ・カンパニー(North American Phonograph Co)に言及する形で残っています。録音媒体そのものの話題と並行して、装置・方式・録音物の権利関係が企業経営と結びつき、契約やライセンスの調整が「録音産業」の土台として進んでいたことを示す材料になります。

フォノグラムを携えた興行と“複製できない録音”の価値

1891年5月2日付の新聞記事では、米国から持ち出した「複製できない」フォノグラムのコレクションを携えて巡業する一座や、いわゆる“フォノグラフの会”(記事中では「phonographic seances」)の様子が紹介されています。ここでは録音が、家庭で反復再生するだけでなく、場を集めて披露する「演目」として機能しており、同じ曲目でも個体ごとの録音の希少性が価値として語られている点が重要です。

コロンビアの蝋管カタログ拡大と商品化の加速

1891年のコロンビア・フォノグラフ・カンパニー(Columbia Phonograph Company)について、1891年6月までに提供リストが10ページ規模に拡大し、行進曲、舞曲、賛美歌、独奏、語り物など多様な内容が並び、蝋管1本あたり1–2ドルで販売されていた、とする概説資料が確認できます。1891年5月はその拡大過程のただ中にあり、録音が「少数の実演用」から「カタログで選んで買う商品」へと比重を移しつつあった流れの中に置けます。

円盤式は存在するが、商業展開はまだ先

円盤式の装置としては、1891年–1893年頃のエミール・ベルリナー(Emile Berliner, 1851–1929)系グラモフォンを現物資料として確認できます。一方で、少なくとも5インチ盤の初期ベルリナー盤については、市場で提供された最初期が1894年10月とする整理もあり、1891年5月の段階では、録音の主役は依然として蝋管であり、円盤は「前夜」に位置づけるのが妥当です。