1890年6月に録音された音楽
1890年6月は、米国で6月1日を調査基準日として第11回国勢調査(1890 United States Census)が実施され(実査は6月2日開始)、退役軍人の扶養・障害年金法(Dependent and Disability Pension Act)が6月27日に成立する一方、欧州では独露再保障条約(Reinsurance Treaty)が更新されず失効へ向かい、産業面では王立オランダ石油会社の前身である王立オランダ会社(Royal Dutch Company for the Exploitation of Petroleum Wells in the Dutch East Indies)が6月16日に創設され、日本ではオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号(Ottoman frigate Ertuğrul)が6月7日に横浜へ到着して6月13日に明治天皇へ謁見するなど、統計技術・社会政策・外交・企業史・国際交流が交差した月でした。
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1890年6月の録音に関する情報のまとめ
1890年6月の録音まわりの動きは、個々の「録音日」が資料上は見えにくい一方で、特許(技術)と公開実演(聴取体験)が同じ月の中で噛み合い、「蝋管に刻んで、遠くの人に聴かせる」実用性が一段と具体化していく時期です。ここでは、一次資料として日付が明確な特許(1890年6月17日)と、6月末に報じられた大規模な公開実演(豪州メルボルン)を中心に、録音史の文脈でピックアップしています。
エジソンのフォノグラフ特許(US430276、1890年6月17日)
1890年6月17日、トーマス・A・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)にフォノグラフ改良の米国特許(No.430,276)が付与され、蝋管への記録/再生をより安定させる設計が整理されていきます。「録る」だけでなく「繰り返し聴かせる」商用運用を支える、機械側の詰めが進んだことを示す同日付特許群の一つです。
エジソンのフォノグラフ特許(US430278、1890年6月17日)
同じ1890年6月17日付で、別件のフォノグラフ特許(No.430,278)も成立しており、溝形状やスタイラス(針)まわりを含む記録方式の細部が特許明細書として固定化されます。蝋管録音が「実験」から「再現性ある製造・興行」へ寄っていく局面で、仕様の言語化(=明細書化)が進んだ月だと位置づけられます。
https://edison.sas.rutgers.edu/images/patents/00430278.pdf
エジソンの「フォノグラム・ブランク」特許(PAT430274、1890年6月17日)
1890年6月17日付の「Phonogram-Blank(フォノグラム用ブランク)」特許は、録音媒体そのもの(空の蝋管=ブランク)に焦点を当てたもので、量的供給の前提条件を技術として押さえています。録音史的には「機械の改良」だけでなく「消耗品(媒体)の規格化・供給」を同時に進めるのが商業化の王道で、その方向が見える資料です。
メルボルンの大規模フォノグラフ公開実演(Athenæum Hall、1890年6月27日)
1890年6月27日、豪州メルボルンのアセニアム・ホール(Athenæum Hall)では「フォノグラフ・エンターテインメント」として、蝋管に記録された器楽・歌・語りが“自動的に”再生される様子がまとまったプログラムとして実演されました。前段では講演と図解(投影)を用いて、音波がダイアフラムを振動させ、その動きが針を介して蝋に痕跡を刻み、再生では同じ溝をなぞることで音が戻る――という原理が説明され、録音が「手品」ではなく「再現可能な技術」だと納得させる構成になっています。実演に使われたレパートリーは、コルネット独奏やブラスバンド、コーチホーンのコール(合図)といった器楽に加え、バンジョー独奏/デュオ、クラリネットとピアノの合奏、デュエット、喜劇歌など多ジャンルで、すでに「その場で録る」より「既製の録音を運んで鳴らす(録音レパートリーの輸入)」ことが興行の核になりつつある点が重要です。また、喜劇歌の末尾で歌い手が漏らした“ついでの一言”まで蝋管に残ってしまう、という逸話が驚きとして語られており、初期録音が持つ「出来事の痕跡」を観客が面白がっていたことが分かります。さらに終盤では、ウィリアム・E・グラッドストーン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)のメッセージがロード・キャリントン(Lord Carrington)へ呼びかける形で再生されたと報じられ、録音が音楽だけでなく「声の輸送(メッセージ媒体)」として受け取られていたことも示されています。加えて別報では、電気増幅のない時代にホール全体へ音を届けるため、長い“トンネル”状の導音具(メガホン的な増幅)を用いた具体描写があり、当時の公開再生は録音機そのものだけでなく音響装置と会場設計を含めた“体験”として成立していたことが読み取れます。
豪州導入のハブ:マクマホン兄弟とメルボルンでの初期実演(1890年6月26日)
興行面では、マクマホン兄弟(MacMahon brothers)が1890年6月26日にメルボルンでフォノグラフをデモンストレーションしたとされ、翌27日の大規模興行へ接続する導入線が見えてきます。
録音媒体(蝋管)の輸入・編成・公演運用を束ねる“代理店/興行師”が、録音普及の実務を担っていたことを示す材料です。
1890年の大枠:音楽用シリンダーとコイン投入型への傾斜(6月末興行はその表面化)
米国側では1890年を通じて、口述筆記(ディクテーション)よりも娯楽用途(コイン投入型を含む)の比重が増していったことが整理されています。
6月末の豪州興行が「既製の音楽蝋管を並べて聴かせる」構成になっているのは、この転回が国際市場にも波及していた一つの現れとして読めます。



