1924年10月に録音された音楽

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1924年10月に録音された音楽

1924年10月は、国際秩序の再建、大衆文化の拡大、近代科学の評価が同時に進んだ月でした。1日には国際連盟(League of Nations)第5回総会で国際紛争の平和的解決に関する議定書(Protocol for the Pacific Settlement of International Disputes)が採択され、戦後の集団安全保障構想が強く打ち出されました。英国では29日に総選挙が行われ、政局が大きく動きました。23日にはウィレム・アイントホーフェン(Willem Einthoven, 1860–1927)が心電図研究への功績でノーベル生理学・医学賞を受け、医療技術の発展が国際的に認められました。文化面では、アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896–1966)による『シュルレアリスム宣言』(Manifeste du surréalisme)が刊行され、前衛芸術の方向を大きく変えました。さらに3日からは1924年ワールズ・カラード・チャンピオンシップ(1924 World’s Colored Championship)が始まり、競技史とアフリカ系アメリカ人の大衆文化史の両面で重要な節目となりました。

この月の確認されている録音:0曲

1924年10月の録音に関する情報のまとめ

1924年10月の録音業界では、既存の機械式録音による商業活動が続く一方で、コロムビア・グラフォフォン社(Columbia Graphophone Co.)とヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)では、ウェスタン・エレクトリック社(Western Electric Company)方式による電気録音への移行が具体化しつつありました。同時に、西海岸向け供給体制の整備、販売店支援策の強化、既存レコード事業の維持も進められており、技術革新と流通再編が並行した月でした。

ヴィクター

ヴィクター・トーキング・マシン社(Victor Talking Machine Company)では、1924年10月に電気録音の試験と西部市場向け供給体制の強化が並行して進んでいました。10月7日–8日にはウェスタン・エレクトリック社(Western Electric Company)方式による試験録音が行われ、22日にはパイプオルガン録音の費用も検討されています。また、同時期の業界誌では、オークランド工場が西部市場向けのレコード供給拠点として機能し、極西部の芸術家録音にも利点を持つ施設として扱われていました。1924年10月の同社は、量産と物流の拡張を進めながら、新方式導入の実務段階へ入っていたとみられます。

コロムビア

コロムビア・グラフォフォン社(Columbia Graphophone Co.)では、1924年10月に電気録音の試験段階から商業展開への接続が進みました。24日にはニューヨークで制作された楽団録音が、同社で通常の商業用マスター番号を与えられた最初期のウェスタン・エレクトリック社(Western Electric Company)方式録音として確認されています。さらにこの月には、同社のマスターワークス・アルバムが最初の8組発売され、長尺作品や高級レパートリーの整理販売も進められました。1924年10月の同社は、新方式の導入と商品体系の整備を同時に進めていた時期でした。

ブランズウィック

ブランズウィック=バルク=コレンダー社(The Brunswick-Balke-Collender Company)では、1924年10月に販売網の引き締めが進められていました。10月15日号の業界誌では、東部地区の営業会議が開かれ、販売店向けサービス改善策を翌月までに整える方針が伝えられています。これは、レコードと蓄音機の販売競争が激しくなるなかで、卸売・小売段階の支援体制を強めようとした動きとして位置づけられます。1924年10月の同社は、録音技術の話題よりも、販売実務と営業体制の整備が前面に出ていた月でした。

トーマス・A・エジソン社

トーマス・A・エジソン社(Thomas A. Edison, Inc.)では、1924年10月にも販売関係者との往復書簡が続いていました。10月27日付で、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)からマーク・シルヴァーストーン(Mark Silverstone, 生没年不明)宛の書簡が確認でき、この時期にも販売網との連絡が継続していたことがわかります。同年の同社は、ラジオ一体型機へ急速に転換するのではなく、既存の蓄音機とレコードの事業を軸にしながら対応を続けていました。1924年10月の同社は、革新的な新機種の打ち出しよりも、従来事業の維持と販売連絡の継続が確認できる月でした。