1943年に録音された音楽
1943年は、第二次世界大戦(World War II)の帰趨が「戦場の勝敗」だけでなく「外交・産業・社会動員・文化」の総体として固まり始めた年でした。東部戦線では、スターリングラード(現:ヴォルゴグラード)をめぐる戦いが1942年7月17日–1943年2月2日に決着し、戦局の重心が移り始めます。続くクルスク周辺の会戦(1943年7月5日–8月23日)は独軍の攻勢が挫折した代表的局面として位置づけられ、消耗戦の質がさらに変化しました。地中海でも、連合軍はシチリア島への上陸作戦オペレーション・ハスキー(Operation Husky)を1943年7月に開始し、同年9月にはイタリア王国が連合国側と停戦(Armistice with Italy, September 3, 1943)へ踏み込みます。太平洋でも、タラワの戦い(Battle of Tarawa, 1943年11月20日–11月23日)のように、島嶼要塞への正面突入がもたらす損害が「次の上陸戦」の設計を左右する段階に入りました。
この年の「会談政治」は、戦後秩序の輪郭を同時に描きました。カサブランカではフランクリン・D・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt, 1882–1945)とウィンストン・チャーチル(Winston Churchill, 1874–1965)が1943年1月14日–1月24日に会談し、戦争目的の提示が国際世論を強く意識するものになります。11月にはカイロでルーズベルトとチャーチルがチャン・カイシェク(Chiang Kai-shek, 1887–1975)と会談(1943年11月22日–11月26日)し、対日戦と戦後のアジアに関する方針を「カイロ宣言(Cairo Declaration)」として示しました。さらにテヘランではルーズベルト、チャーチル、ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin, 1878–1953)が1943年11月28日–12月1日に会談し、対独戦の戦略調整を本格化させます。軍事作戦が世界規模で同期し始めた背景には、こうした会談が作った政治的な接着剤がありました。
一方で、民間人の生存は戦線と同じ速度で圧迫されます。ワルシャワのワルシャワ・ゲットー蜂起(Warsaw Ghetto Uprising, 1943年4月19日–5月16日)は、占領と大量移送に対する都市蜂起として象徴的な位置を占めました。植民地支配下の英領インドではベンガル飢饉(Bengal famine of 1943)が1943年–1944年に深刻化し、戦時の輸送・統制・物価が食料危機を増幅させたことが改めて問われます。こうした「戦後を生き延びさせる」課題に対し、国際連合救済復興機関(United Nations Relief and Rehabilitation Administration, UNRRA)が1943年11月9日に設立され、救済・復興・難民支援を国際機構として準備する動きも始まりました。さらに米国内では、戦時生産と人口移動が緊張を高め、デトロイトでは1943年6月20日を起点に人種暴動が発生し、ロサンゼルスでは同年6月3日からのズートスーツ暴動(Zoot Suit Riots)が「戦時の規範」と「都市の差別構造」を衝突させました。
こうした総力戦は、音楽と録音の流通条件そのものも組み替えました。舞台ではリチャード・ロジャース(Richard Rodgers, 1902–1979)とオスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II, 1895–1960)の『オクラホマ!(Oklahoma!)』が1943年3月31日にブロードウェイ初演され、戦時下のアメリカ文化の自己像を大衆娯楽として強く定着させます。同時期、アメリカ音楽家連盟(American Federation of Musicians)は1942年8月1日に商業録音の停止を打ち出し、録音産業は長期の制約下に置かれましたが、1943年には一部レーベルで合意が進み、軍向けのV-Disc(V-Discs)は同年10月27日以降、一般販売とは別枠として扱われます。医療面でも、セルマン・ワクスマン(Selman Waksman, 1888–1973)の研究環境からストレプトマイシン(streptomycin)が1943年に発見され、感染症治療の地平が更新されていきます。銃後の生活、娯楽、医療、救済、そして録音メディアの条件が、1943年という一点で同時に変化していたことが、後年のポピュラー音楽の地層にもそのまま刻まれました。
