1860年に録音された音楽

この記事は約5分で読めます。
スポンサーリンク

1860年に録音された音楽

1860年は、産業化と帝国主義が進むなかで、政治・経済・科学が「距離」と「情報」を縮めていく年でした。音の領域では、エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル(Édouard-Léon Scott de Martinville, 1817–1879)がフォノートグラフ(Phonautograph)で作成したフォノートグラム(phonautogram)の中に、1860年4月9日のオー・クレール・ドゥ・ラ・リュヌ(Au Clair de la Lune)が含まれ、のちにファースト・サウンズ(First Sounds)によって再生が試みられました。耳で聴く装置がない段階でも、音が波形の痕跡として媒質に残り得ることが示され、のちの録音文化へ至る「音=記録」という発想を、技術史のかなり早い地点で具体物として残した出来事でした。

国際経済では、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland)とフランス第二帝政(French Second Empire)がコブデン=シュヴァリエ条約(Cobden–Chevalier Treaty)を結び、関税引き下げを軸にした自由貿易の流れが強まります。一方、イタリア半島では千人隊遠征(Expedition of the Thousand)を契機に両シチリア王国(Kingdom of the Two Sicilies)の体制が揺らぎ、住民投票などを通じてサルデーニャ王国(Kingdom of Sardinia)への編入が進みました。同年にはサヴォワ(Savoy)とニース(Nice)の帰属をめぐるトリノ条約(Treaty of Turin)と住民投票も行われ、国境線が軍事と外交だけでなく、手続きによっても再編されていく局面が現れます。

東アジアでは第二次アヘン戦争(Second Opium War)が最終局面に入り、清朝(Qing dynasty)は北京条約(Convention of Peking)を通じて追加の通商・外交条件を受け入れました。戦争の過程では円明園(Yuanmingyuan)が破壊され、文化財の略奪と焼失が近代外交の陰で進む現実も露わになります。同じ1860年、日本では桜田門外の変で井伊直弼(1815–1860)が殺害され、対外関係をめぐる国内政治の緊張が一気に噴出しました。その一方で江戸幕府(Tokugawa shogunate)は日米修好通商条約(Treaty of Amity and Commerce)の批准書交換に向け、軍艦咸臨丸を伴う遣米使節を派遣し、太平洋横断航海や地峡横断鉄道などを経由する移動網に接続していきます。

社会制度と科学技術の面でも、長い影響を残す動きが重なりました。ロンドンではフローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale, 1820–1910)の構想を背景に、セント・トーマス病院(St Thomas’ Hospital)でナイチンゲール看護学校(Nightingale Training School for Nurses)が開設され、看護が職能として体系化されていきます。南アジアではインド刑法典(The Indian Penal Code, 1860)が1860年10月6日に制定され、近代的な法典編纂が統治の枠組みとして固定化されました。知の世界では、オックスフォード大学自然史博物館(Oxford University Museum of Natural History)でチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809–1882)の進化論をめぐる公開討論が行われ、宗教・社会・科学の境界が公衆の場で再交渉されます。さらに1860年7月18日の皆既日食では写真観測が試みられ、太陽プロミネンスが太陽に属する現象だとする理解を後押ししました。

通信と輸送では、アメリカ合衆国(United States of America)でポニー・エクスプレス(Pony Express)が1860年4月3日に運用を開始し、陸上郵便の高速化が「ニュースが届く速度」を押し上げました。政治面では、アメリカ合衆国(United States of America)の1860年11月6日の大統領選挙でエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809–1865)が当選し、同年12月20日にはサウスカロライナ州(South Carolina)が連邦からの脱退に踏み切って、内戦前夜の緊張が決定的になります。こうした出来事が同時進行する1860年は、国家の境界が再編され、法と医療が制度化され、そして音さえも可視化され始めた年として、のちの大衆文化と記録メディアの土台を静かに積み上げました。

この年の確認されている録音:1曲

4月

1860年4月は、通信と政治が加速する一方で、音が「痕跡」として残された月でした。アメリカ合衆国(United States of America)では1860年4月3日にポニー・エクスプレス(Pony Express)が運用を開始し、遠隔地のニュース流通を押し上げました。同国では1860年4月23日に1860年民主党全国大会(1860 Democratic National Convention)が開会し、選挙年の亀裂が公然化します。フランス(France)ではエドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル(Édouard-Léon Scott de Martinville, 1817–1879)が1860年4月9日にフォノートグラフ(Phonautograph)でオー・クレール・ドゥ・ラ・リュヌ(Au Clair de la Lune)のフォノートグラム(phonautogram)を作成しました。北アフリカでは1860年4月26日のワドゥ・ラス条約(Treaty of Wad Ras)でスペイン・モロッコ戦争(Hispano-Moroccan War, 1859–1860)が終結しました。

4月9日

【1860年4月9日の出来事】
・アメリカ反奴隷制度協会(American Anti-Slavery Society)がニューヨークのアポロ・ホール(Apollo Hall)で最終会合を開き、事実上の解散に至りました。