1892年3月に録音された音楽
1892年3月は、遠隔地の自然資源をめぐる国際調停、都市生活を変える機械技術、そして大衆娯楽の制度化が同時進行した月でした。アメリカ合衆国上院は3月29日に、ベーリング海のオットセイ猟をめぐる係争を仲裁に付すためのアメリカ合衆国とグレートブリテン及びアイルランド連合王国間の仲裁付託条約(Convention between the United States and Great Britain, concluded at Washington, February 29, 1892)の批准勧告を行い、資源保護と国際法の枠組みが意識されます。同月、ジェシー・ウィルフォード・レノ(Jesse Wilford Reno, 1861–1947)は移動階段(後のエスカレーター)に関する特許を得て、群衆を運ぶ装置の発想が公共空間へ広がりました。スポーツでは、フレデリック・アーサー・スタンリー(Frederick Arthur Stanley, 1841–1908)が3月18日にスタンレー・カップ(Stanley Cup)寄贈を表明し、競技の「継続する物語」を象徴するトロフィー文化が形になります。さらに3月15日にはリヴァプール・フットボール・クラブ(Liverpool Football Club)が設立され、地域社会の娯楽が組織と記録によって積み上がっていく時代感が濃くなりました。日本では久米邦武が筆禍をめぐり3月4日に帝国大学教授職を非職とされ、近代知の公共性と政治・宗教の緊張が可視化しました。
この月の確認されている録音:0曲
1892年3月の録音に関する情報のまとめ
1892年3月の「録音」については、個々の録音実演がこの月に行われたことを直接示す一次資料は、今回参照した範囲では十分に確認できませんでした。一方で、円筒(シリンダー)中心の録音実務が続く時代に、円盤(ディスク)型録音の量産化に直結する技術が、アメリカ合衆国特許として1892年3月に出願されていることは確認できます。また、1892年を起点とする初期円盤録音の整理資料では、当時の録音活動の記録が残っていないこと自体が、年代同定の難しさとして明示されています。
エミール・ベルリナーの酸エッチング式ディスク録音法の特許出願(1892年3月30日)
エミール・ベルリナー(Emile Berliner, 1851–1929)は、アメリカ合衆国特許第534,543号(United States Patent No. 534,543)「グラモフォン(Gramophone)」に関する出願を1892年3月30日に行ったことが確認できます。ここでは、亜鉛板などへの記録を酸でエッチングする工程を含むディスク録音の方式が示され、同一原盤から複製を得るという「複製配布」を前提にした録音技術の方向性が、文書上はっきり現れます。なお、この特許は1895年2月19日に登録(特許付与)されています。
譲受人として記載されるユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニー
アメリカ合衆国特許第534,543号(United States Patent No. 534,543)の表題部には、発明者エミール・ベルリナー(Emile Berliner, 1851–1929)とあわせて、譲受人としてユナイテッド・ステイツ・グラモフォン・カンパニー(United States Gramophone Company)が記載されています。1892年3月の段階で、発明と権利帰属(事業化)を結びつける形で記録が残る点は、録音産業の制度化を読む手がかりになります。ただし、同社がこの月に具体的な録音物を制作・頒布したかどうかは、この特許記載だけでは確認できません。
1892年以降の実験的な亜鉛原盤の存在(ただし「1892年3月作成」とは未確認)
アメリカ合衆国議会図書館(Library of Congress)のエミール・ベルリナー・コレクション(Emile Berliner collection)に関するファインディングエイドでは、未刊行の亜鉛レコード(実験的なものを含む)が1892年–1898年の範囲で含まれる旨が示されています。これにより、1892年には少なくとも実験的段階のディスク記録媒体が存在したことは確認できますが、1892年3月に制作された個体が含まれるかどうかは、この資料記述からは確定できません。
