1934年に録音された音楽

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1934年に録音された音楽

1934年は、世界恐慌後の社会不安が各地で政治の急進化を促し、同時に放送・通信の制度化が大衆文化の伝播速度を一段と押し上げた年でした。ドイツ国ではアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889–1945)が権力の中枢をさらに固め、6月30日–7月2日の「長いナイフの夜(Night of the Long Knives)」で党内外の実力者を粛清して統治の主導権を軍・官僚機構へと接続しました。8月2日のパウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg, 1847–1934)死去後には国家元首権限が一本化され、政治宣伝と大衆動員の技術が「国家の音量」を増していきます。隣国オーストリアでも内戦と政変が続き、エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss, 1892–1934)暗殺が象徴するように、権力闘争は暴力の臨界点を越えつつありました。さらにユーゴスラビア王国ではアレクサンダル1世(Alexander I of Yugoslavia, 1888–1934)がマルセイユで暗殺され、外交と安全保障の均衡が「暗殺」という突発事象で揺さぶられる現実が露わになります。国際連盟にソビエト社会主義共和国連邦が加わったことは、集団安全保障の枠組みが拡張する一方で、各国が相互不信の中で次の衝突へ傾いていく逆説も示しました。

社会の動揺は国内政治にも噴き出しました。スペインでは1934年10月の蜂起(いわゆる「1934年10月革命」)が発生し、国家統合と階級対立が同時に加熱していきます。ソビエト社会主義共和国連邦ではセルゲイ・キーロフ(Sergei Kirov, 1886–1934)暗殺が起点となり、統治機構と社会全体を覆う恐怖政治の季節へとつながりました。帝国主義的緊張も高まり、イタリア王国とエチオピア間のワルワル事件(Walwal incident)は翌年の侵略戦争へ連鎖します。中国ではマオ・ツォートン(Mao Zedong, 1893–1976)らが率いる「長征(Long March)」が始まり、政治軍事の大移動がその後の国家像を作り替える長期波となりました。こうした権力の再編は、新聞・ラジオ・映画といった大衆メディアを通じて日々「物語」として消費され、同時代の音楽や娯楽の受容環境も、統制と商業化の両方向から圧力を受けていきます。

そのメディア環境を制度面で支えたのが、アメリカ合衆国の1934年通信法(Communications Act of 1934)と連邦通信委員会(Federal Communications Commission)の設置で、電波と通信の公共性が国家単位で再定義されました。同年の1934年証券取引法(Securities Exchange Act of 1934)による米国証券取引委員会(Securities and Exchange Commission)設置や、1934年国民住宅法(National Housing Act of 1934)による連邦住宅局(Federal Housing Administration)創設は、危機後の資本市場と生活基盤を制度で再設計しようとする試みでした。科学ではイレーヌ・ジョリオ=キュリー(Irene Joliot-Curie, 1897–1956)とフレデリック・ジョリオ=キュリー(Frederic Joliot-Curie, 1900–1958)の人工放射能の研究、エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi, 1901–1954)の中性子研究が進み、「見えないもの」を測定し制御する技術観が加速します。スポーツではイタリアで1934年FIFAワールドカップが開催され、国威発揚と大衆娯楽が同じ舞台で絡み合いました。災害もまた同時代の生活感覚を規定し、南アジアでは1934年1月のビハール・ネパール地震が甚大な被害をもたらし、日本でも函館大火(3月)や室戸台風(9月)が都市と社会の脆弱性を突きつけました。政治・制度・科学・災害が同じ年に重なり合った1934年は、録音や放送を含む大衆文化が「国家」「市場」「技術」「日常」の交点で形を変えていく過程を、極めて濃密に映し出しています。