The 22nd Regiment March
19世紀のアメリカにおいて、吹奏楽を国民的な娯楽にまで押し上げた立役者が、パトリック・サーズフィールド・ギルモア(Patrick Sarsfield Gilmore, 1829–1892)です。アイルランド生まれのギルモアは移民としてアメリカに渡り、ボストンを拠点に活動した後、ニューヨークへ進出し、そこでニューヨーク州国民警備隊の第22連隊(22nd Regiment National Guard)付きの公式バンドの指揮者となりました。このバンドは南北戦争後の復興期に市民の間で高い人気を誇り、パレードや式典だけでなく、公園でのコンサートなどで広く演奏活動を行いました。ギルモアは楽団を通じて、軍楽が単なる軍事行進にとどまらず、祝祭や市民文化の中心として機能する可能性を示しました。その象徴的レパートリーが「The 22nd Regiment March」です。
Forms part of: George Grantham Bain Collection (Library of Congress)., Public domain, via Wikimedia Commons
マーチとしての特徴と音楽的価値
「The 22nd Regiment March」は、19世紀の典型的なアメリカン・マーチの様式を備えています。行進曲として必要な明快なリズムとファンファーレ的な序奏を持ち、観衆の耳を引きつけるだけでなく、演奏する楽団にとっても見せ場となる構造を備えています。当時の軍楽隊は弦楽器を含まないため、金管、木管、打楽器だけで音を構築しなければなりませんでした。その中で、このマーチは金管の力強いユニゾンと木管の細かいパッセージ、打楽器のリズムが巧みに組み合わされ、演奏効果を最大化しています。ギルモアはこの曲を自らの楽団で繰り返し演奏し、市民に軍楽隊の華やかさと迫力を印象づけました。また、行進曲としてのテンポ設定も絶妙で、軍事パレードに合わせるだけでなく、一般市民の祝典やフェスティバルの行進にもぴったりのテンポ感がありました。後にジョン・フィリップ・スーザが大衆的なマーチで名声を得る以前、ギルモアはすでに「The 22nd Regiment March」のような曲を通じて、アメリカの吹奏楽文化の土台を築いていたのです。
後世への影響と録音史に残る意味
「The 22nd Regiment March」は、ギルモアが亡くなった後も、アメリカ各地の軍楽隊や市民楽団で長く演奏され続けました。とりわけ注目すべきは、19世紀末から20世紀初頭にかけての録音史において、このマーチが繰り返し選ばれたことです。1889年には、エジソンの技師アドルフ・テオドール・ワンゲマンがヨーロッパでフォノグラフの録音実験を行った際、録音デモとしてこのマーチをピッコロ演奏で記録しました。これは高音域で録音しやすく、欧州の王侯貴族にアメリカ吹奏楽文化を紹介する象徴として最適だったからです。後にエジソンの初期円筒カタログにも収録され、同曲は世界初期の録音デモの代表例として今日まで研究されています。また、ジョン・フィリップ・スーザが発表した数々のマーチの中にも、この「The 22nd Regiment March」から影響を受けたと思われるリズムパターンや行進テンポの要素が見て取れます。ギルモアが築いた軍楽の伝統は、後のアメリカ軍楽文化の発展においても大きな礎となり、「The 22nd Regiment March」は彼の音楽遺産を象徴する存在として現在もその価値が語り継がれています。
