1907年に録音された音楽

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1907年に録音された音楽

1907年は、帝国の競争と社会の近代化が同時進行するなかで、「衝突を抑える国際ルール」と「日常を変える技術・文化」が並走した年でした。国際政治の場では、第二回ハーグ平和会議(Second Hague Peace Conference, 1907年6月15日–10月18日)が44か国参加で開かれ、陸戦・海戦の規則、捕獲権、仲裁制度などをめぐる条約群が整備されました。同年のノーベル平和賞は、平和運動家エルネスト・テオドロ・モネータ(Ernesto Teodoro Moneta, 1833–1918)と、国際法学者ルイ・ルノー(Louis Renault, 1843–1918)に分けて授与され、国際法を「戦争を減らすための技術」として位置づける潮流が可視化されます。さらに英露協商(Anglo–Russian Convention, 1907年8月31日)は、ペルシア・アフガニスタン・チベットをめぐる整理を通じて英露対立を緩和し、勢力圏の線引きと秩序構想が同居する現実を示しました。

国内政治と支配構造の再編も進みます。ロシア帝国ではニコライ2世(Nicholas II, 1868–1918)政権下で第二国家ドゥーマが解散され(1907年6月3日)、選挙法の改定を伴う「六月三日クーデター」として記憶されました。朝鮮半島では大韓帝国皇帝・高宗(Gojong, 1852–1919)が退位(1907年7月)に追い込まれ、第三次日韓協約(Japan–Korea Treaty of 1907, 1907年7月24日)により内政が統監の指導下に置かれて保護国化が強化されていきます。一方、参政権拡大の象徴として、フィンランド議会選挙(1907年3月15日–16日)では女性議員19名が選出され、女性の政治参加が世界史上の節目として刻まれました。英帝国ではニュージーランドがドミニオンとなり(Dominion of New Zealand, 1907年9月26日)、自治の枠組みが再定義されます。

経済では、アメリカ合衆国で1907年恐慌(Panic of 1907)が金融市場を震わせ、信託会社を中心とする信用不安が取り付け騒ぎへ波及しました。危機局面では銀行家ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan, 1837–1913)が救済調整の中心人物として注目され、こうした経験が後の金融制度改革を促す契機ともなります。同じ年、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt, 1858–1919)大統領の布告によりオクラホマが合衆国46番目の州となり(1907年11月16日)、領土統合と人口移動が生む新市場の拡大も続きました。

科学技術と文化は、未来の感覚をさらに具体化します。アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879–1955)は1907年の相対性理論の総説のなかで、加速度運動と重力の等価性に関する着想を明確化し、一般相対性理論へ向かう基盤を固めました。飛行ではポール・コルニュ(Paul Cornu, 1881–1944)が回転翼機による自由飛行として広く評価される短時間の浮上(1907年11月13日)を成し遂げ、空の技術は固定翼だけでなく回転翼へも枝分かれしていきます。探検ではアーネスト・ヘンリー・シャクルトン(Ernest Henry Shackleton, 1874–1922)が率いる英国南極ニムロド遠征(British Antarctic Nimrod Expedition, 1907–1909)が出航し(1907年8月)、極地は科学と国民的想像力の舞台として再び注目されました。

芸術の側でも、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881–1973)が「アヴィニョンの娘たち」(Les Demoiselles d’Avignon, 1907年6月–7月)を制作し、絵画空間の前提を揺さぶります。音楽ではジャン・シベリウス(Jean Sibelius, 1865–1957)の交響曲第3番(Symphony No. 3, Op.52)が完成し、ヘルシンキで初演(1907年9月25日)されました。精密計測の分野ではアルバート・エイブラハム・マイケルソン(Albert Abraham Michelson, 1852–1931)がノーベル物理学賞(1907年)を受け、測ること自体が近代の力として称揚されます。1907年は、国際法・国家統治・金融・科学・芸術が互いに干渉しながら、次の時代の標準を形づくっていく過程を示す一年でした。