1942年に録音された音楽
1942年は、第二次世界大戦(World War II, 1939–1945)が文字どおり「世界戦争」として最高潮へ達した年でした。戦域は太平洋から北アフリカ、東部戦線へと同時多発的に拡大し、各国は総力戦体制を深めます。
太平洋では日本の攻勢が続き、シンガポール陥落(1942年2月15日)やフィリピンでの戦闘が勢力図を塗り替えました。一方で連合国側も反攻の足場を固め、珊瑚海海戦(Battle of the Coral Sea, 1942年5月4日–8日)で進撃に歯止めがかかり、ミッドウェー海戦(Battle of Midway, 1942年6月4日–7日)では日本海軍が主力空母を失う転換点となります。さらにガダルカナル島の戦い(Guadalcanal Campaign, 1942年8月7日–1943年2月9日)が始まり、太平洋戦線は長期消耗戦へ移りました。
ヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ国がソビエト連邦へ侵攻を継続し、スターリングラード攻防戦(Battle of Stalingrad, 1942年8月23日–1943年2月2日)が帰趨を占う焦点となります。大西洋ではドイツ海軍潜水艦(U-boat)による通商破壊が激化し、物資輸送の成否が前線を左右しました。北アフリカでは第二次エル・アラメイン会戦(Second Battle of El Alamein, 1942年10月23日–11月11日)で連合国が主導権を握り、トーチ作戦(Operation Torch, 1942年11月8日)の上陸によって地中海戦域の戦略が大きく動きました。
外交面では連合国共同宣言(Declaration by United Nations, 1942年1月1日)が発表され、フランクリン・デラノ・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルらが率いる連合国側の結束が制度として固まります。社会動員も急速に進み、アメリカ合衆国ではアメリカ合衆国大統領令9066号(Executive Order 9066, 1942年2月19日)が出され、日系人の強制移住と収容が政策として進みました。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国やアメリカ合衆国では配給と統制が日常へ入り込み、工業生産から輸送までが戦争遂行のため再編されます。植民地世界でも緊張が高まり、インドではマハトマ・ガンディーらが主導したインド退去運動(Quit India Movement, 1942年8月)が大規模な弾圧とともに広がりました。
同時に1942年は、国家による暴力が最悪のかたちで制度化された年でもあります。ワンゼー会議(Wannsee Conference, 1942年1月20日)を経て、ドイツ国によるユダヤ人迫害は「絶滅」を中核に据えた政策として推し進められ、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(Auschwitz II–Birkenau)やトレブリンカ絶滅収容所(Treblinka extermination camp)などで大量殺害が拡大しました。戦場の前線だけでなく、占領地と収容施設でも人間の尊厳が徹底的に踏みにじられたことは、戦後の国際秩序と人権概念を形づくる暗い起点になります。
科学技術もまた戦争と結びつき加速します。アメリカ合衆国ではマンハッタン計画が本格化し、エンリコ・フェルミらがシカゴ・パイル1号(Chicago Pile-1)で世界初の持続的核連鎖反応(1942年12月2日)を達成しました。ドイツ国ではV2ロケット(V-2 rocket)の成功試験飛行(1942年10月3日)が行われ、戦後の宇宙開発へつながる技術系譜が兵器開発の中で形を取ります。
音楽と録音・放送の領域でも、1942年は重要な節目です。アメリカ音楽家連盟がレコード会社に対する録音ストライキ(1942年8月1日–1944年11月)を開始し、商業録音の供給構造が揺さぶられました。その一方で、前線と銃後を結ぶプロパガンダや慰問のためにラジオ放送がさらに強化され、アメリカ合衆国では武装部隊ラジオ・サービス(Armed Forces Radio Service, 1942年5月26日)が発足します。世界が分断と衝突へ引き裂かれるほど、声と言葉と音楽は、恐怖を煽る道具にも、喪失を抱える人々の支えにもなり得ることが、1942年にはっきり刻まれました。
