1889年1月に録音された音楽

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1889年1月に録音された音楽

1889年1月は、1月1日に北米西部からカナダ中部にかけて皆既日食が観測され、8日にはハーマン・ホレリス(Herman Hollerith, 1860–1929)がパンチカード式集計機に関する米国特許を取得するなど、天文学と情報技術の両面で後世に大きな影響を与える出来事が相次いだ月でした。
思想と政治の面では、トリノでのフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844–1900)の精神崩壊が創作活動の事実上の終焉となり、30日にはオーストリア皇太子ルドルフ・フォン・エスターライヒ(Rudolf von Österreich, 1858–1889)とマリー・ヴェツェラ(Mary Vetsera, 1871–1889)の心中事件(マイヤーリンク事件)がハプスブルク家の後継問題をめぐってヨーロッパ社会に衝撃を与えました。

この月の確認されている録音:0曲

1889年1月録音の「日付不明・月確定」音楽録音は確認できるか

公開されている主要アーカイブや研究資料を確認した範囲では、「1889年1月に録音された(=月まで確定している)」一方で「日付(日にち)は不明」という条件を満たし、なおかつ曲名まで特定できる音楽録音は、現時点では見つかっていません。つまり、「1889年1月に録音された“特定の作品”」として公表できるだけの根拠(曲名と月を結びつける一次情報)が、公開範囲では不足しています。

それでも「1月に音楽録音が行われた可能性」が高い理由

ただし、1889年1月の時点で、テオ・ワンゲマン(Adelbert Theodor Edward Wangemann, 1855–1906)が関わった“音楽シリンダー”がすでに流通していたこと、さらに「オペラ曲(operatic selection)に付される短い決まり文句(いわゆる締めの音型)が不適切だ」という趣旨の苦情が語られていることは、当時の記述から確認できます。このことは、「1889年1月にも音楽録音が作られていた」可能性を強く示唆しますが、その“オペラ曲”が具体的に何の曲だったのかまでは公開情報から確定できず、曲名単位で「1889年1月録音」と断定するのが難しい状況です。

なぜ曲名まで確定しにくいのか

背景として、ワンゲマンが体系的な録音台帳(recording ledger)を開くのが1889年5月とされ、それ以前(1889年1月を含む)の録音は、需要に応じた試行的・断片的な生産になりやすかった点が挙げられます。その結果、後世の整理で「月まで確定できるメタデータ」や「曲名と録音時期を結びつける手掛かり」が残りにくく、現代の公開資料だけでは、1889年1月に限って“曲名まで確定した日付不明録音”を提示しづらい、という構造的な問題があります。

1889年1月の録音に関する情報のまとめ

1889年1月の録音まわりの動きは、実際の録音日付がはっきりしないものが多く、「1888年末〜1889年初頭」とまとめて記述されることが多いです。ここでは、一次資料から1月に直接言及しているもの、あるいは「1889年初頭」とされる録音・技術・企業動向を、録音史の文脈でピックアップしています。

コロンビア・フォノグラフ社の法人化

1889年1月、ワシントンD.C.でコロンビア・フォノグラフ社(Columbia Phonograph Company)が法人化され、ノース・アメリカン・フォノグラフ社(North American Phonograph Company)のワシントン地区代理店として正式に発足します。創業者エドワード・D・イーストン(Edward Denison Easton, 1856–1915)は当初、口述筆記用フォノグラフと蝋管のリースに重点を置きますが、この会社がのちに娯楽用録音の大手レーベル「コロンビア・レコード」へ発展していきます。

ノース・アメリカン・フォノグラフ社の支社網と録音需要

アメリカ議会図書館の概説によると、1889年初頭までにノース・アメリカン・フォノグラフ社は全米に約30の地域会社を設立していました。1月時点でこれらの会社はビジネス向け口述のみならず展示・娯楽用の録音も求め始めており、エジソン・フォノグラフ・ワークス(Edison Phonograph Works)側で音楽蝋管の供給体制を拡大せざるを得ない状況になっていました。

エジソン・オレンジ工場の稼働準備

1889年1月11日付オーストラリア紙『Euroa Advertiser』は、トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison, 1847–1931)がニュージャージー州オレンジに新しい工場と研究所を建設し、400〜500人を雇用してフォノグラフの大量生産に備えていると報じています。この記事では、エジソン自身がフォノグラフを「生涯最大の発明」と呼び、近く大量の機械と録音用蝋管を世界中にリース供給する計画を語っており、1月時点で録音メディアの大規模供給が視野に入っていたことがわかります。

グラッドストン演説録音計画

1889年1月12日付タスマニア紙『Launceston Examiner』の「Edison’s Phonograph」記事は、ウィリアム・グラッドストン(William Ewart Gladstone, 1809–1898)の演説を録音するためにエジソンが特別なフォノグラフを用意したと伝えています。実際に録音が行われたかは確認できませんが、1月の時点で、政治家の重要演説を記録・保存する新メディアとして録音が認識されていたことを示すエピソードです。

ワンゲマンの「ミュージカル・トレードマーク」への苦情

エジソン研究所で音楽録音を担当していたアデルベルト・テオドール・エドワード・ワンゲマン(Adelbert Theodor Edward Wangemann, 1855–1906)について、1889年1月付の手紙で、ある興行主が「ワンゲマンの作るすべての円筒の終わりには奇妙な『ミュージカル・トレードマーク』が付いている」と苦情を述べています。これは1888年末から1889年初頭にかけて展示用の音楽蝋管がすでに多数制作されており、1月には演奏内容だけでなく「録音の締め方」まで議論されるほどフォーマットが定着しつつあったことを示します。

展示用「エジソン・エキシビション・レコーディング」

1888年10月頃(推定)〜1889年3月頃にかけて、エジソン研究所では展示・実演を意識したデモ録音(Edison Exhibition Recordings)が作られました。現存例として、エジソンの語りによる「アラウンド・ザ・ワールド・オン・ザ・フォノグラフ(Around the World on the Phonograph)」(1888年10月頃)、エフィー・スチュワート(Effie Stewart, 生没年不詳)歌唱の「ザ・パティソン・ワルツ(The Pattison Waltz)」(1889年2月25日)、イースラー管弦楽団(Issler’s Orchestra)演奏の「フィフス・レジメント・マーチ(Fifth Regiment March)」(1889年3月頃)などが知られます。

エジソン・トーキング・ドール用試作録音

国立公園局が所蔵する『Hickory, dickory, dock』の金属製円筒は、「おそらく1889年初頭、ニュージャージー州ウェスト・オレンジで録音」とされています。これはエジソンの「トーキング・ドール」計画の一環で制作された試作であり、1月時点で録音技術が娯楽・実演用だけでなく、玩具に組み込まれるマイクロ録音としても実験されていたことを示しています。

蝋管配合変更と「白蝋」への移行

展示録音に用いられた蝋管は、当時「白蝋(white wax)」円筒と呼ばれましたが、整理資料では実際には黄色パラフィン(ceresin・beeswax・stearic waxの混合)とされています。こうした材料は1890年代に褐色の金属石鹸系(metallic soap composite)ワックスへ置き換えられていき、保存状態や音質にも影響を与えました。

「The Pattison Waltz」と1889年1月時点の録音プログラム

現存音源で録音日が明確な最初期の例として、『The Pattison Waltz』の蝋管は録音冒頭で「オレンジ、ニュージャージー、1889年2月25日」とアナウンスされており、エフィー・スチュワート(Effie Stewart, 生没年不詳)が歌い、ワンゲマンが伴奏とアナウンスを務めています。これは2月の録音ですが、内容や録音様式は前述の展示用セットと連続しており、1889年1月時点ですでに確立しつつあった「音楽+アナウンス」という展示用録音フォーマットが、具体的な芸術作品として結実した例と見ることができます。